2010年9月27日月曜日

天岩戸神社 天安河原



西本宮の旧称は「天磐戸神社」、東本宮は「氏社」であったが、明治4年(1871年)にそれぞれ「天岩戸神社」、「氏神社」と改称し、昭和45年に合併、現在のごとく天岩戸神社東西両本宮を称すようになった。

グルネット宮崎  天岩戸神社 天安河原
http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/amaiwato/amaiwato.htm

2010年9月26日日曜日

2010年9月21日火曜日

野宮神社(ののみやじんじゃ)



野宮神社斎宮行列








---野宮神社HPより---
野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。 野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。斎王制度は 後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶しました。その後は神社として存続し、勅祭が執行されていましたが、時代の混乱の中で衰退していきました。 そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ、皇室からの御崇敬はまことに篤いものがありました。

黒木鳥居と小柴垣は平安の風情を現在に伝え、源氏物語、謡曲野宮でも有名な当社は、嵯峨野巡りの起点として多くの方が訪れられます。えんむすびの神様、子宝安産の神様として全国から崇敬を集めています。




野宮神社HP

2010年9月20日月曜日

日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)






内宮(上ノ本宮)
天照大御神(アマテラスオオミカミ)

多紀理毘賣命(タギリヒメノミコト)
市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)
多岐都比賣命(タギツヒメノミコト)


外宮(下ノ本宮)
天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコホニニギノミコト)
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)




2010年9月19日日曜日

真如堂 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ)

真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ)
真如堂
真如堂 posted by (C)ciba

真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区にある天台宗の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。

年末の真如堂
年末の真如堂 posted by (C)ciba

 真如堂2
真如堂2 posted by (C)mas

真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味。一般には「真如堂」と呼ばれていますが、それはもともとは本堂の呼び名でした。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人かいさんしょうにんが、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院(藤原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。真如堂HPより
真如堂1
真如堂1 posted by (C)mas



慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿のうか明神みょうじんで根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊とされました。立像はそのままご自身で持っておられました。
その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏いんぜいねんぶつの一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3センチほど如来を納められました。
もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫びゃくごうを入れようとすると、如来は首を振って拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。真如堂HPより


2010年9月15日水曜日

阿智神社(長野県下伊那郡阿智村)





社伝によれば人皇第八代孝元天皇五年春正月、天八意思兼命(あめのやこころおもいかねのみこと)は、御児天手力男神(あめのたじからお)と天表春神(あめのうわはるのみこと)を引き連れて、信濃国阿智の里にお降りになりました。そしてお宮を建てお静まりになりました。

延喜式神名帳に載る伊那郡二社の内一社がこの阿智神社で古くより信濃国の国司が祭る社として公の信仰厚く地方の名のある神社として一般の人々からも深く崇敬されて今日に至っています。
---昼神温泉観光局HPより---








昼神温泉観光局HP http://hirugamionsen.jp/index.html 




「この鏡を私(天照大御神)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」(「邇邇藝命者 此鏡者同我御魂 欲祭此者 當如拜吾前 尊崇而祭之 次 思金神者 取持前事 輔其為政」『古事記』)

2010年9月9日木曜日

重陽の節句(ちょうようのせっく)

「重陽」とは9月9日にあたり、菊に長寿を祈る日です。陽(奇数)が重なる日そして、奇数の中でも
一番大きな数字という意味で重陽といわれています。日本で は奈良時代から宮中や寺院で菊を観賞す
る宴が行われています。

菊の節句

芭蕉の句 草の戸や日暮れてくれし菊の酒 
京都に伝わるユニークな重陽の行事としては、上賀茂神社の「重陽神事・烏相撲(からすずもう)」が
あります、この日の朝10時の、前夜から菊の花にかぶせておいた「菊の被綿(きせわた)」を神前に供
える神事につづいて、烏相撲がとりおこなわれます。境内細殿前の土俵の左右から、弓矢を手にした
二人の刀弥(とね)が横とびしながら2つの立砂の前へと現れ、烏の鳴きまねをした後、氏子の子供が相
撲を行うという、古式ゆかしいユーモラスな行事です。

平成3年からは、京都三大祭りのひとつ「葵祭」の斎王代がこれを観覧するというならわしが800年ぶ
りに復活しました。



9月9日
重陽神事・烏相撲
上賀茂神社 京都市北区
午前10時から重陽神事、11時から烏相撲。

重陽の節句
市比売神社 京都市下京区
菊の花と一年間愛用してきた南天の木の箸を奉納して無事を感謝し長寿を祈ります。現代社会で大量
に使用されるカードを供養する行事もあります。

重陽の節会
法輪寺 京都市西京区
菊花酒を飲んで800歳もの長寿を得たという中国の菊慈童の像に献花し、菊にちなんだ謡曲や能楽が
奉納されます。












菊酒について
邪気を払い長寿を祈って飲む酒。
菊の花びらを酒に浸しています。

2010年9月7日火曜日

高天彦神社(たかまひこじんじゃ)









高天彦神社パンフレット「高天彦神社」から

御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(別名 高天彦神)
由 緒
本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生れにになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて 「 高天原 」 と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。








参考資料
高天原史跡ガイド

御所市HP観光ガイド

万葉散歩フォトギャラリー

神社ふり~く