2011年1月30日日曜日

大洗磯前神社 荒磯太鼓 日の出



大洗磯前神社の創建は『文徳実録』によると、856年(斉衡3年)である。戦乱により中世には荒廃するが、近世になって、水戸藩主徳川綱條により再興される。再建された現在の本殿は独特の形をしている。

大洗磯前神社は岬の丘の上に鎮座し、社殿は海に面している。海岸の岩礁に最初に神が影向(神霊が出現すること)したと言われるところがあり、鳥居(神磯の鳥居)がたてられている。岬は陸地と海原の境界である。岬はこの世と異界の境界であると同時に両者を繋ぐところでもあるのである。岬に神が降臨したのは、岬が神が異界からこの世に来るためのゲートだったからといえるだろう。

大洗磯前神社は酒列磯前神社とともに2社で一つの信仰を形成しているが、これは珍しいことではない。鹿島神宮と香取神宮の例や熊野三山の例がある。一般的に近隣にある類似の形態の神社が複数集まって形成することが多いようだ。

この神社はまた漁業の神、医療の神などとして信仰されている。
Wikiより

2011年1月20日木曜日

大斎原(おおゆのはら)



明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。
かつての本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍もの規模を誇っていたそうです。

熊野川と音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれるかつての本宮大社。熊野川は別名、尼連禅河といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。

江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。---み熊野ねっとより--- http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html

2011年1月2日日曜日