2010年10月29日金曜日

薬師寺



歴史
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒
)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。


創建
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇で ある鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれ た「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。

「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍 を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう 「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である。





持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。

民話
西の京。かつて朱雀大路で区切られた平城京の西半分を、西の京と読んだことから、この名はおこりました。薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法華寺などの寺々がこの地を彩って いますが、なんといっても西の京のシンボルと言えるのは、薬師寺の東塔です。
「凍れる音楽」とたたえられる薬師寺東塔。これは730年頃の建立で、十六世紀の薬師寺の大火災にも焼失をまぬがれ、創建当初の寺の姿を今に伝える、只ひとつの建造物なのです。塔は一見すると六層に見えますが、それは各層の下にモコシと呼ばれる小屋根がついているためです。本当は三重の塔です。この塔は「竜宮の塔の写し」だといいます。昔、ある工匠の夢に、天竺から渡ってきた薬師如来様が現れ、塔の建立を命じ、それから工匠は、毎日図面をひいて苦心しましたが、どうしてもうまくいきません。すると、また夢のお告げがあり、竜宮城内の立派な塔を見ることが出来ました。工匠はその形を写し取り、薬師寺の東塔を完成したのだということです。

2010年10月26日火曜日

唐招提寺







『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。



唐招提寺のHPで動画がみれます。



寺所蔵説話
唐招提寺蔵片仮名文説話三種 影印・翻刻並に解説 : 「取鷹俗母縁」「役行者悲母事」「桃華因縁」

民話
唐招提寺を開いた鑑真和上は、唐の高僧でした。いくたびも日本に渡ろうとしては失敗 し十一年、ついに日本の土を踏んだ時、辛苦のため和上の目は盲しいていました。 さて、唐招提寺には、鑑真和上の持ち来たった三千粒の仏舎利が祭られています。その仏舎利も、数奇な運命をたどって日本へ渡ってきたのです。 日本に向かう航海中のある日、一天にわかに曇り、海が荒れ始めました。そして長さ 三丈にも達する大海蛇が現れて、船の中央に座する鑑真和上の手から、舎利瓶を奪い取ったのです。思託という和上の弟子が、すかさず海に飛び込みました。

大海蛇と格闘することしばし、ようやく思託は舎利瓶を取り戻し、船に戻ってきました。ところが海はますます激しく荒れ狂い、船は木の葉のように揺れて、再び舎利瓶は 波間にのみこまれたのです。 鑑真和上は、先ほどの大海蛇は竜神かその使者に違いあるまい、と考えました。 それで一同に命じみなで竜神に向けて舎利の無事を祈ったのです。 やがて波のうねりが次第に小さくなっていき、波間にキラリと光る物が現れました。 それは舎利瓶を背にのせた黄金色の亀でした。亀は一人の老人に変身すると、和上にこう語りました。

「私は昔、釈尊に教えを受けた輪蓋竜王である。そなたはこれから日本に渡り寺を 創建するが、その寺の東南に竜王と白い石が現れ、舎利と寺を守るだろう。」と、 そして舎利瓶を和上に渡し、老人は海に消え去ったのです。
唐招提寺創建の折、本当に白い石が寺の東南に現れました。鑑真和上は池を作り、竜神をそこに祀りました。今もある鎮守社がそれで、唐招提寺が一千年以上も火事に あうことがなかったのは、この竜神のおかげだと信じられています。(奈良の昔話と観光スポットより)

仏像
唐招提寺HP
http://www.toshodaiji.jp/about_kondoh.html
仏教美術
http://www.yamagata-net.jp/usr/yamagu2/bukkyo/page/A0006.html


2010年10月24日日曜日

赤坂氷川神社




由緒
天暦5年(951年)、蓮林僧正が霊夢を見て、現在の赤坂四丁目のあたりに奉斎したと伝えられる。享保15年(1730年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の命により、現在地に遷された。現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されている。麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭とされる。明治元年(1868年)、准勅祭社に列する。

赤坂氷川神社公式サイトを開く

2010年10月15日金曜日

室生寺



室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は、賢璟(けんきょう)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室生」の略だという。仏塔古寺十八尊第十八番。Wikiより












本堂(灌頂堂)
室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。屋根は入母屋造、檜皮葺き。堂内中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛ける。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。




板絵着色伝帝釈天曼荼羅-金堂本尊背後の壁に描かれた彩色画。主題は明らかでないが、寺伝では中尊を帝釈天とする。遺例のきわめて少ない平安前期仏画の稀少な遺品の1つである。


2010年10月13日水曜日

長谷寺

本堂(礼堂)内部、右方が正堂










長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。




銅板法華説相図 - 「千仏多宝仏塔」とも称する。法華経の 見宝塔品(けんほうとうほん)で、釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したもの。縦83.3センチ、横75.0センチの鋳 銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されている。千仏は、薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した、いわゆる押出仏を板面に貼っている。銅板の下部 には長文の銘が刻まれている。そこには「戌年」に「飛鳥浄御原で天下を治めた天皇」の病気平癒のため、僧・道明が作ったという意味のことが書かれている。 この戌年について、寺伝では天武天皇の朱鳥元年(686年)とするが、研究者の間では干支が一巡した文武天皇2年(698年)の作と見る意見が多い。(奈良国立博物館に寄託)

2010年10月8日金曜日

奈良斑鳩 法輪寺




法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、土地の名によって三井寺(みいでら)ともよばれています。三井(みい)の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。




http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/pict/17253361/src.html
 via kwout


http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/pict/17253409/
via kwout

画像一覧 【Flickr】
法輪寺HP

2010年10月7日木曜日

八幡神社(勝利八幡神社)



桜上水、上北沢の鎮守である勝利八幡神社。平安時代に京都府八幡市に鎮座する石清水八­幡宮より勧請されました。勝利という名前からスポーツ関係からの参拝が多いそうです。


2010年10月2日土曜日

宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)



御祭神 三座
高御魂尊(中座)
天太玉命(東座)
思兼命   (西座)


境内社
天孫降臨に随従された神々を祀る
天鈿女命社
天岩戸の前で神楽を舞い天孫降臨に随従された女神、芸能の祖神
猿田彦命社
天孫降臨の時先頭に立って八街の邪神を祓い交通安全に導かれた神
手力男命社
天岩戸の変の時岩戸を開いて天照大神を助け申し上げた力の強い神で天孫降臨に随従された神
大宮媛命社
太玉命の御子、天照大神に仕え世を平和に導かれた神
豊岩窓命社
御門の神、天孫降臨のとき天照大神の勅を承り、思兼命、天力男命と共に豊葦原に降り給うた神




-奈良県史(神社)より-
『大和志』に宇奈多理坐高御魂神社法華寺村にあり、今楊梅天神と称すとあり、式内 大社の当社にあてられているが、横井町あたりに鎮座の社が当社だとの説もある。古来法華寺鎮守としてその管轄化にあったが、明治の神仏分離で紳域内の本地 仏十一面観音は法華寺に移され、神社は地元村で祀られることになった。祭神は高皇産霊神・太玉神・思兼神。流造三間社本殿は室町初期の建築で、重要文化 財。『日本書紀』持統天皇の六年(692)十二月二十四日太夫等を遣わして、新羅の調を大倭菟名足外四社に奉ったとあり、『三代実録』貞観元年(859) 四月の条に「従四位下法花寺坐神従四位上」とある外、「延喜」の制では大社として月次・相嘗・新嘗と出ている。


延宝九年(1681)の『和州旧跡幽考』の項に「法華寺西南辺に楊梅の天神という社あり。此のほとりにや。楊梅の宮をたてて天皇うつり給ふて後、五位以 上を宴し給ふよし、くわしくは『続日本紀』にあり」と、光仁天皇の宝亀四年(773)二月完成したという楊梅宮は天神社のほとりではないかといっている。 「楊梅」を転じて「桜梅」となったとみられ当社を桜梅天神ともいう。


由緒
延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。古文書では宇奈足とも菟足とも書いている。武内宿禰の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇 六年(692)二月には新羅の調を伊勢住吉紀伊大倭菟名足の五社に奉るとある。その一社でこの神社の神戸は正倉院文書の天平二年(730)大振る税帳新抄 格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言ってい るのは近郷だけでの通称の略称である。本殿は室町時代初期の建築遺構を残し、三間社流造檜皮葺で国指定の重要文化財である。境内一帯は平城天皇の楊梅宮址 とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。ー社頭掲示板よりー


所在地
奈良市法華寺町 600


大きな地図で見る


http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_kiki/k04/
影の実力者、藤原不比等の邸宅があったとされる地へ(記紀ルート04)|記紀・万葉でたどる奈良 via kwout


『日本書紀』持統天皇6年12月甲申(24日)条(692)
遣二大夫等一奉二新羅調於五社一。伊勢。住吉。紀伊。大倭。菟名足。


http://yamatotk.web.fc2.com/nara_jinjya/anaguri_jinjya.htm
穴栗神社 via kwout

http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm055.html
 正倉院文書の天平2年(730)の「大和国正税帳」には、「菟足神戸稲伍拾捌束参把」とあり、菟足社が財源として添上郡に封戸を持っていたことがわかる。また、大同元年(806)の『新抄格勅符抄』神封部に、「菟足神十三戸、大和八戸、尾張五戸」とあり、これも菟足社の封戸の記録である。

 菟足社は伊勢や住吉と並んで5社に入るような名社であり、奈良時代には神戸も与えられていた。しかし、神戸を支給するというのは、これによって神社の財政基盤を整えることであるから、平城宮内には祀られていなかったことの証明になるという。神祇官が祀ったはずだから、神祇官の予算で賄われていたはず、したがって独自の神戸はなかったということだろうか。

以上の説によれば、式内社の宇奈太理坐高御魂神社は古市の今木荘にあった菟足社のことであり、東院の宇奈太理坐高御魂神社は廃都以後に創建され、祭神が共通の高皇産霊尊ということで、社勢の衰えた本来の菟足社に変わっていつしか式内社を名乗るようになったということになる。


http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm055.html

東院跡にある宇奈太理社が奈良時代の菟足社とは異なる可能性は高いが、同社が関心を集めるのは東院に存在するということと共に、祭神が高皇産霊尊であることが大きい。

『日本書紀』神代巻本文では高皇産霊尊は高天原の最高神であり、葦原中国に天下りするニニギノミコトの母方の祖にあたる。父方の祖が天照大神であるが、天下りを命令するのは高皇産霊尊である。天下りと国譲りのエピソードは天孫である天皇の国土統治を正当化する根拠となるが、その立役者が高皇産霊尊なのである。


http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm055.html

蛇足
ほかの宇奈・・・
宇奈提 うなせ うなて

 『出雲国造神賀詞』に皇室を守護する神として「事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐せ」とあり、この「宇奈提(うなせ)」は「雲梯(うなて)」のことであるとして、延喜式神名帳に記載される式内大社「大和国高市郡 高市御坐鴨事代主神社」に比定されている(延喜式神名帳には「川俣神社三座」という社名が見えるが、これは近くの木葉神社に比定されている)。

『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事代主神」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。大海人皇子の即位後、この霊験により、高市御坐鴨事代主神に、史上初となる神位が授けられている。万葉集にも当社のことを詠んだ歌がある。

住吉大社(大阪市住吉区)には畝傍山口神社境内における埴取の神事があるが、その祭祀を行う者は当社で装束を整えることが恒例となっており、そのことから「装束の宮」と俗称される。




http://kamnavi.jp/as/kawamata.htm

皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、 倭大物主櫛瓺玉命と名を稱へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂(みたま)を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、 事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置き...出雲国造神賀詞奏上
万葉集
巻七  1344
真鳥住む雲梯の社(もり)の菅の根を衣にかき付け着せむ児もがも   
巻十二 3100
思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯(うなて)の杜の神し知らさむ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%80%A0

ほかに資料
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007003068



2010年10月1日金曜日

籠神社(このじんじゃ)神幸行列(葵祭・籠神社)



社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。
養老3年(719年)、 真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めた。真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とさ れた。後に海神・天水分神が配祀された。祭神が籠に乗って雪の中に現れたから「籠宮」という社名になったという伝承がある。
延喜式神名帳では「丹後国与謝郡 籠神社」と記載され、名神大社に列し、月次・新甞の幣帛に預ると記されている。
社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目である。4代目の倭宿禰命は、神武東征の際に速吸門で亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導した。「海部氏系図」が国宝に指定されている。(Wikiより)


籠神社HP