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2012年5月14日月曜日

神事「どうじやこう」

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20120423/CK2012042302000036.html?ref=rank



中日新聞:神事「どうじやこう」奉納 関の春日神社で大祭:岐阜(CHUNICHI Web) via kwout

春日神社(かすがじんじゃ)は、岐阜県関市にある神社。関鍛冶の守護神。

例祭には、古典芸能「童子夜行(どうじやこう)」が能舞台で奉納される。また、この例祭に使用される能装束類(63点)は昭和31年(1956年)に国の重要文化財に指定されており、毎年10月第2日曜日の刃物まつりなどで特別公開されている。

同じく使用される能狂言面は、昭和43年(1968年)に関市指定重要文化財となっている。


http://sekikanko.jp/modules/library/index.php?cid=7







2012年5月10日木曜日

こいのぼり作り

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20120426-OYT8T00148.htm

こいのぼり作り追い込み二見興玉神社 : 三重 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) via kwout

こいのぼり(鯉幟)とは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まった、端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世と健康を願って家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる吹流しを鯉の形に模して作ったのぼり。皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹き流し[1]とも言う。現在はグレゴリオ暦(新暦)5月5日まで飾られ、夏の季語として用いられる。飾られる季節も変わり、イメージは「晩春の晴天の日の青空にたなびくもの」となった。 但し地方によりひと月遅れのグレゴリオ暦(新暦)6月5日までの地方もある(例 静岡県の西部地区他)。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、こいのぼりは「幟(のぼり)」とは名づけられているものの、形状は魚を模した吹流し形である。

そもそも、こいのぼりは門松や雛人形と同じく、江戸時代中期の裕福な庶民の家庭で始まった習慣であった。

端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。 この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。

一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。

さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものである。

ただし、これは主に江戸を含む関東地方の風習で当時の関西(上方)には無い風習であった。天保9年(1838年)の『東都歳時記』には「出世の魚といへる諺により」鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは「東都の風俗なりといへり」とある。

2012年5月9日水曜日

浦安の舞 阿奈志神社

http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/34500.html


優雅「浦安の舞」37年ぶり奉納 小浜・阿奈志神社で例祭 社会 福井のニュース :福井新聞 via kwout

940年(昭和15年)11月10日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。

1933年(昭和8年)の昭和天皇御製

    天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

が神楽の歌詞となっている。

皇紀二千六百年奉祝臨時祭に合わせて奉奏するために日本全国で講習会が開かれ、海外鎮座の神社でも奉奏されるべく朝鮮・台湾などの外地へも講師が派遣された。奉祝会当日午前10時には全国一斉に奉奏された。以降各神社で舞われるようになり、現在に至っている。

明治以降整備されてきた神社祭祀制度には女性による奉仕に関する規定が無かったが、舞の制定により女性が神社に奉仕する機会が作られた。また全国規模の講習会と奉奏の徹底は神社における神楽舞の普及に大きく貢献した。

尚、浦安の舞などの近代に作られた神楽は国風歌舞や舞楽、神楽舞を下地に創作されたものであり、広義では雅楽の延長線としても捉えられているが、神社祭祀に特化した新たな創作神楽であることから、狭義では雅楽と明確に区分される。特に作曲・作舞した多忠朝は、日本神話を根拠とする神楽舞の重要性、日本文化に於ける神楽の独自性を主張している。

2012年5月8日火曜日

河口浅間神社 「稚児の舞」と「孫見祭(まごみまつり)」

http://bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=300


県指定無形文化財(けんしていむけいぶんかざい) 河口浅間神社(かわぐちこあさまじんじゃ)の稚児(ちご)の舞(まい) 詳細情報│地域文化資産ポータル via kwout

河口の稚児舞(かわぐちのちごまい)は、山梨県南都留郡富士河口湖町河口(旧同郡河口湖町)の河口湖北岸に鎮座する河口浅間神社に伝承されている民俗芸能の稚児舞。同神社の4月25日の例大祭と、7月28日の太々御神楽祭において拝殿で奉納され、地元では「オダイダイ」とも呼ばれるが、巫女舞による太々神楽が原型であると考えられている。貴重な民俗芸能として昭和35年(1960年)11月7日に山梨県の無形民俗文化財に指定された。なお河口のほか、旧河口湖町域の大石にも大正年間(20世紀前葉)に伝わったという稚児舞いがある。

「オイチイサン」と呼ばれる稚児による舞で、稚児には7、8才から12才までの少女が10人程選ばれ、装束は白の小袖の上に緋の千早と指貫袴を着して刺繍を施した陣羽織を重ね、緋の襷を掛けて顔には化粧を施し、頭に瓔珞(ようらく)を被り[1]、鈴等の採物を採って舞う。オイチイサンは古くは神職か御師の子で両親健在の者に限られていたが、現在では両親健在の条件は守られつつも広く氏子の子女から選ばれている。またかつては稚児に選ばれると厳しい禁忌が課されたが[2]、現在でも4月の例大祭に奉納する際には生ものを口にする事を禁じ、毎朝火打石による切り火で身を清める等の仕来りに従うことが義務付けられている[3]。囃子は「下方(したかた)」と呼ばれ、鳴物(楽器)は大太鼓、鞨鼓(「バチ」と呼ぶ)各1人、笛3人からなり、囃子手は成年男子が勤める。

奉納に際して稚児は拝殿内右側(向かって左側)に1列に座し、そこから摺り足で拝殿中央に進んで舞う。舞いは5番立て。全ての舞いで右手に鈴を採るが、左手の採物は各舞で異なる。

    御幣(ごへい)の舞 - 2人または3人舞。御幣を採物にする。
    扇の舞 - 2人または3人舞。採物は扇。
    剣(つるぎ)の舞 - 1人舞。採物は剣。
    八方の舞 - 2人舞。採物は御幣。最も複雑な動きを見せ、八方向を清める舞[4]。
    宮めぐりの舞 - 8人舞。採物は扇。拝殿から本殿前にかけてを3廻りし、本殿前の浜床に並んで舞い納める。

7月の太々御神楽祭では5番全てが奉納されるが、4月の例祭では御幣の舞、扇の舞、剣の舞の3番が奉納される[2]。また、道者による富士登山が盛行した近世には、登山前の道者の依頼で奉納される事もあったという[4]。

2012年5月2日水曜日

稗田阿礼 売太神社

http://www.nara-np.co.jp/20120501150210.html
奈良新聞WEB | 総合 | 【古事記1300年】語り継ぐ「日本の心」 - 大和郡山の売太神社 via kwout

稗田阿礼という人物については、「古事記の編纂者の一人」という以外にはほとんど何もわかっていない。同時代に編まれた『日本書紀』にもこの時代の事を記した『続日本紀』にも名前は出てこない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えていた。一度目や耳にしたことは決して忘れなかったので、その記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられた。そのとき28歳であったと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する(声を出してよむ)所を筆録し、『古事記』を編んだ。

    時有舎人。姓稗田ヽ名阿礼ヽ年是二十八。為人聡明ヽ度目誦口ヽ払耳勒心。即ヽ勅語阿礼ヽ令誦習帝皇日継及先代旧辞。(『古事記』序)

訳:そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。

2012年2月21日火曜日

神事「オビシャ」

http://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/nencyugyozi/kaisetu/obisya.htm

オビシャという名前にはどういう意味があるのでしょうか。「御奉射、御備射、御歩射」などの漢字があてられますが、一説では、馬に乗って矢を射る流鏑馬・騎射に対して、馬に乗らない「歩射」であると考えられています。
白い紙に同心円を描いた一般的な的もありますが、面白いのは、墨で「鬼」の宇を書いた的や、三本足の烏や兎などを描いた的も多いのです。古来、中国や朝鮮 半島、日本では、三本足の烏は太陽を、兎や蛙は月を象徴する動物として描かれてきました。このため、オビシャは、「日射」すなわち象徴的に太陽を射て、新 たな年の活性化を図る行事であったのではないか、とする考え方もあります。
このように、本来は弓矢で的を射る弓神事がオビシャ行事の根幹にあったのですが、次第にその形式が薄れて、単に村人達が寄り合い、会食するだけの行事となっている例も多くみられます。