2012年5月30日水曜日

甘酒

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20120305/201203051028_16430.shtml
香る甘酒、春の足音 郡上市の千虎白山神社で祭り - 岐阜新聞 Web via kwout

甘酒の起源は古墳時代に遡り、日本書紀に甘酒の起源とされる天甜酒(あまのたむざけ)に関する記述がある。古くは「一夜酒(ひとよざけ)」または「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」と呼ばれた。

かつては夏に、冷やしたものまたは熱したものを暑気払いに飲む習慣があり、俳句では現在でも夏の季語となっている。夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的だとして、江戸時代には夏の風物詩だった[2]。守貞漫稿には、「夏月専ら売り巡るもの」が「甘酒売り」と書かれており、非常に人気がある飲み物であった。当時の江戸幕府は低所得者対策として甘酒の価格を最高で4文に制限している。

武士の内職として作られていて『甘酒売り』という職業もあった。

2012年5月28日月曜日

遷座祭

http://mainichi.jp/area/nara/news/20120303ddlk29040504000c.html
談山神社:本殿の修理完了 きょう遷座祭 /奈良 - 毎日jp(毎日新聞) via kwout

 談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社。祭神は藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。桜と紅葉の名所である。神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といった。

鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。

上賀茂神社摂社「新宮神社」特別公開

http://www.kamigamojinja.jp/topics/2012/2012_shingu.html



http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/myspi/2012/05/-8-1.html

2012年5月26日土曜日

流し雛(びな)神事

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saga/news/20120303-OYT8T00851.htm


三船祭(みふねまつり)

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120520000110

平安の雅、船上に再現 嵐山で三船祭 : 京都新聞 via kwout

三船祭は、昌泰元年(898年)長月21日、宇多上皇が嵐山に御幸の際、大堰川 で御船遊びをしたことが始まりとされています。
その後のたびたびの御船遊びで、詩歌、吟詠、管弦、舞楽など様々な御遊びがあったことにより、昭和3年車折神社では御大典を記念して、「三船祭」が始められました。その後に、例祭の延長神事として、現在のように5月第3日曜日に行われるようになりました。
「三船祭」の名前の由来は、白川天皇が行幸の折に、「和歌」「漢詩」「奏楽」に長じたものを3隻の舟に乗せて御舟遊びをされたといわれていることから「三船」とされています。
現在の「三船祭」では、御座船を先頭に20数隻の船が、嵐山や渡月橋上流で優雅な様をみせてくれます。

 

2012年5月25日金曜日

シロウオ漁の豊漁を願う祭事

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/290355



御禊の儀

http://www.asahi.com/national/update/0504/OSK201205040013.html

流しびな

日食の神話

http://tonoda.blogspot.jp/2012/05/blog-post_21.html
能楽師 殿田謙吉: 金環日食と天岩戸神話 via kwout


「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている


2012年5月18日金曜日

御香宮神社「献茶祭」

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120428000044

銘水の恵み、神前にささげ 御香宮神社で「献茶祭」 : 京都新聞 via kwout

けんちゃ【献茶】

献茶は抹茶を点(た)てて神仏に供えることであるが,神前を献茶,仏前を供茶(くうちや)と区別されている。したがって献茶は神殿で濃茶(こいちや)・薄茶(うすちや)2碗の茶を点じて供える儀式をいう。ただ茶の湯は本来〈仏に供え人にも施し我ものむ〉(《南方録》)とするのが基本的な思想であるから,献茶は貴人高位に茶を勧める心持ちでなされる。各神社における献茶行事はむしろ明治以降に盛行をみるようになった。それは崇神の表現であるとともに実行者の権威の誇示ともなり,参集した人びとは拝服席で茶を喫する年中行事となった。
http://kotobank.jp/word/%E7%8C%AE%E8%8C%B6

2012年5月14日月曜日

神事「どうじやこう」

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20120423/CK2012042302000036.html?ref=rank



中日新聞:神事「どうじやこう」奉納 関の春日神社で大祭:岐阜(CHUNICHI Web) via kwout

春日神社(かすがじんじゃ)は、岐阜県関市にある神社。関鍛冶の守護神。

例祭には、古典芸能「童子夜行(どうじやこう)」が能舞台で奉納される。また、この例祭に使用される能装束類(63点)は昭和31年(1956年)に国の重要文化財に指定されており、毎年10月第2日曜日の刃物まつりなどで特別公開されている。

同じく使用される能狂言面は、昭和43年(1968年)に関市指定重要文化財となっている。


http://sekikanko.jp/modules/library/index.php?cid=7







2012年5月10日木曜日

こいのぼり作り

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20120426-OYT8T00148.htm

こいのぼり作り追い込み二見興玉神社 : 三重 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) via kwout

こいのぼり(鯉幟)とは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まった、端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世と健康を願って家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる吹流しを鯉の形に模して作ったのぼり。皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹き流し[1]とも言う。現在はグレゴリオ暦(新暦)5月5日まで飾られ、夏の季語として用いられる。飾られる季節も変わり、イメージは「晩春の晴天の日の青空にたなびくもの」となった。 但し地方によりひと月遅れのグレゴリオ暦(新暦)6月5日までの地方もある(例 静岡県の西部地区他)。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、こいのぼりは「幟(のぼり)」とは名づけられているものの、形状は魚を模した吹流し形である。

そもそも、こいのぼりは門松や雛人形と同じく、江戸時代中期の裕福な庶民の家庭で始まった習慣であった。

端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。 この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。

一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。

さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものである。

ただし、これは主に江戸を含む関東地方の風習で当時の関西(上方)には無い風習であった。天保9年(1838年)の『東都歳時記』には「出世の魚といへる諺により」鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは「東都の風俗なりといへり」とある。

2012年5月9日水曜日

浦安の舞 阿奈志神社

http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/34500.html


優雅「浦安の舞」37年ぶり奉納 小浜・阿奈志神社で例祭 社会 福井のニュース :福井新聞 via kwout

940年(昭和15年)11月10日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。

1933年(昭和8年)の昭和天皇御製

    天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

が神楽の歌詞となっている。

皇紀二千六百年奉祝臨時祭に合わせて奉奏するために日本全国で講習会が開かれ、海外鎮座の神社でも奉奏されるべく朝鮮・台湾などの外地へも講師が派遣された。奉祝会当日午前10時には全国一斉に奉奏された。以降各神社で舞われるようになり、現在に至っている。

明治以降整備されてきた神社祭祀制度には女性による奉仕に関する規定が無かったが、舞の制定により女性が神社に奉仕する機会が作られた。また全国規模の講習会と奉奏の徹底は神社における神楽舞の普及に大きく貢献した。

尚、浦安の舞などの近代に作られた神楽は国風歌舞や舞楽、神楽舞を下地に創作されたものであり、広義では雅楽の延長線としても捉えられているが、神社祭祀に特化した新たな創作神楽であることから、狭義では雅楽と明確に区分される。特に作曲・作舞した多忠朝は、日本神話を根拠とする神楽舞の重要性、日本文化に於ける神楽の独自性を主張している。

2012年5月8日火曜日

河口浅間神社 「稚児の舞」と「孫見祭(まごみまつり)」

http://bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=300


県指定無形文化財(けんしていむけいぶんかざい) 河口浅間神社(かわぐちこあさまじんじゃ)の稚児(ちご)の舞(まい) 詳細情報│地域文化資産ポータル via kwout

河口の稚児舞(かわぐちのちごまい)は、山梨県南都留郡富士河口湖町河口(旧同郡河口湖町)の河口湖北岸に鎮座する河口浅間神社に伝承されている民俗芸能の稚児舞。同神社の4月25日の例大祭と、7月28日の太々御神楽祭において拝殿で奉納され、地元では「オダイダイ」とも呼ばれるが、巫女舞による太々神楽が原型であると考えられている。貴重な民俗芸能として昭和35年(1960年)11月7日に山梨県の無形民俗文化財に指定された。なお河口のほか、旧河口湖町域の大石にも大正年間(20世紀前葉)に伝わったという稚児舞いがある。

「オイチイサン」と呼ばれる稚児による舞で、稚児には7、8才から12才までの少女が10人程選ばれ、装束は白の小袖の上に緋の千早と指貫袴を着して刺繍を施した陣羽織を重ね、緋の襷を掛けて顔には化粧を施し、頭に瓔珞(ようらく)を被り[1]、鈴等の採物を採って舞う。オイチイサンは古くは神職か御師の子で両親健在の者に限られていたが、現在では両親健在の条件は守られつつも広く氏子の子女から選ばれている。またかつては稚児に選ばれると厳しい禁忌が課されたが[2]、現在でも4月の例大祭に奉納する際には生ものを口にする事を禁じ、毎朝火打石による切り火で身を清める等の仕来りに従うことが義務付けられている[3]。囃子は「下方(したかた)」と呼ばれ、鳴物(楽器)は大太鼓、鞨鼓(「バチ」と呼ぶ)各1人、笛3人からなり、囃子手は成年男子が勤める。

奉納に際して稚児は拝殿内右側(向かって左側)に1列に座し、そこから摺り足で拝殿中央に進んで舞う。舞いは5番立て。全ての舞いで右手に鈴を採るが、左手の採物は各舞で異なる。

    御幣(ごへい)の舞 - 2人または3人舞。御幣を採物にする。
    扇の舞 - 2人または3人舞。採物は扇。
    剣(つるぎ)の舞 - 1人舞。採物は剣。
    八方の舞 - 2人舞。採物は御幣。最も複雑な動きを見せ、八方向を清める舞[4]。
    宮めぐりの舞 - 8人舞。採物は扇。拝殿から本殿前にかけてを3廻りし、本殿前の浜床に並んで舞い納める。

7月の太々御神楽祭では5番全てが奉納されるが、4月の例祭では御幣の舞、扇の舞、剣の舞の3番が奉納される[2]。また、道者による富士登山が盛行した近世には、登山前の道者の依頼で奉納される事もあったという[4]。