2012年2月2日木曜日
2012年1月14日土曜日
2011年10月9日日曜日
火祭薪能 大山阿夫利神社
2011年2月21日月曜日
大山阿夫利神社(おおやま あふりじんじゃ)
大山阿夫利神社の神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすことからこの名が起こったといわれ、標高は、1251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっています。阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきました。
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいます。山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っており、 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣(こくへい)の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運長久を祈られました。
引目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統に守られた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されており、全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの景色もすばらしく、多くの人達に親しまれ、常に参詣するひとが絶えません。
大山阿夫利神社HPより
http://www.afuri.or.jp/index.html
大山阿夫利神社Wiki
「能」は観世流宗家(観世清和師)・「狂言」には大蔵流狂言(山本東次郎師)をお迎えし、当代最高峰の演技が上演されています。
また、地元で精進を続けている大山狂言座や大山進謡会のメンバーによる狂言や仕舞なども披露されます。
今年は10月5日・6日の両日となります。
山帰り奉納HPより
とりわけ「大山参り」は、富士よりも江戸に近く、中でも鳶 (とび) や大工といった高所で仕事をする職人衆が、安全祈願のため、その昔は両国橋のたもとの垢離場で水垢離をとり、梵天 (幣束) と一丈余の太刀を押し立て参詣に繰り出します。大山に着くと、御師と呼ばれる先導師の宿坊に泊まり、翌朝参詣登山をします。参詣者はお清めした木太刀を奉納し、かわりに神前から別の木太刀を受けて、それを持ち帰って自宅の神棚に祀っていたと言われています。「大山参り」の人気は、江戸から気軽に行けるということだけではなく、行き帰りの道中、宿場に博打場や遊興の場などが点在していたことも、その理由だったようです。当時江ノ島や周辺の遊山は人気が高く、また東海道の各宿場にも博打場や遊郭があったようで、鳶や大工といった職人が「大山参り」を口実に出かけて行くのも、お盆の頃に詣でる「盆山」の頃が多かったといいます。現在も沢山の講中が崇敬者を集め、先導師の宿坊を足場として参拝に訪れています。
大山の石尊社 [しゃくそんしゃ] へ参詣した鳶の者が、その帰りの道中、博打に負けたうえ、宿で買わされた安女郎にも劣った女たちについて、自分たちの間抜けぶりを、自嘲する、というのがあらすじです。
清元の歌詞の中には帰りのお楽しみの様子が語られており、梵天 (ぼんてん) や、お土産にでも買ったのか、麦わら細工のラッパなどを持って登場しますが、「跡は野となれ山まいり」の歌詞からは、お盆の頃にやってくる借金取りから 「大山参り」を理由に逃れようという、当時の鳶の生活と共に、たくましい江戸っ子気質を感じさせてくれます。
お目当ての女に振られた間抜けなさまを自嘲的に踊った後、新内の「蘭蝶」のクドキ、手拭いの踊りとなり、そして庄内節を踊り、最後は再び旅を続けようとします、江戸の空気が一杯に横溢する踊りです。
名優三代目坂東三津五郎
歌舞伎舞踊「山帰り」は、江戸時代の名優三代目坂東三津五郎初演に始まり、現在の十代目坂東三津五郎まで好評を博し、代々受けつがれてきた坂東流のお家芸ともいえる大事な踊りです。大山にきわめて所縁の深い演目でありながら、これまで阿夫利神社に奉納舞踊はありませんでした。当代三津五郎は、十代目襲名にあたり、ご神徳への感謝を込めて、大山阿夫利神社ご祭神への「山帰り」舞踊奉納を一つの目標、心願と捉え、実現を長く祈念しておりました。そして、この度、阿夫利神社の快諾を得て、奉納舞踊実現への第一歩を踏み出す運びとなりました。
山帰り奉納HPより
http://www.yamagaeri.com/
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいます。山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っており、 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣(こくへい)の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運長久を祈られました。
引目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統に守られた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されており、全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの景色もすばらしく、多くの人達に親しまれ、常に参詣するひとが絶えません。
大山阿夫利神社HPより
http://www.afuri.or.jp/index.html
大山阿夫利神社Wiki
火祭薪能
今から300年前の元禄時代に誕生した大山能は、途中戦争によりやむなく中断されましたが、関係者の努力により戦後復活し今日に到り今年第30回目となります。「能」は観世流宗家(観世清和師)・「狂言」には大蔵流狂言(山本東次郎師)をお迎えし、当代最高峰の演技が上演されています。
また、地元で精進を続けている大山狂言座や大山進謡会のメンバーによる狂言や仕舞なども披露されます。
今年は10月5日・6日の両日となります。
山帰り奉納HPより
大山参り
「大山参り」というのは、現在の神奈川県大山の山頂に鎮座する「大山阿夫利神社 (おおやまあふりじんじゃ)」に、旧暦六月から七月にかけ参拝するもので、江戸期の人々に、富士山の霊験を信仰する「富士講 (ふじこう)」とならび、大変人気の高い民間信仰です。とりわけ「大山参り」は、富士よりも江戸に近く、中でも鳶 (とび) や大工といった高所で仕事をする職人衆が、安全祈願のため、その昔は両国橋のたもとの垢離場で水垢離をとり、梵天 (幣束) と一丈余の太刀を押し立て参詣に繰り出します。大山に着くと、御師と呼ばれる先導師の宿坊に泊まり、翌朝参詣登山をします。参詣者はお清めした木太刀を奉納し、かわりに神前から別の木太刀を受けて、それを持ち帰って自宅の神棚に祀っていたと言われています。「大山参り」の人気は、江戸から気軽に行けるということだけではなく、行き帰りの道中、宿場に博打場や遊興の場などが点在していたことも、その理由だったようです。当時江ノ島や周辺の遊山は人気が高く、また東海道の各宿場にも博打場や遊郭があったようで、鳶や大工といった職人が「大山参り」を口実に出かけて行くのも、お盆の頃に詣でる「盆山」の頃が多かったといいます。現在も沢山の講中が崇敬者を集め、先導師の宿坊を足場として参拝に訪れています。
歌舞伎舞踊 山帰り
歌舞伎舞踊の中には、江戸時代を元気に、しかも、たくましく生きた庶民の生活や風習を描いた作品が数多くあります。特に江戸っ子の夏の信仰を描いた作品に「大山参り」を題材とした、『山帰り』があります。大山の石尊社 [しゃくそんしゃ] へ参詣した鳶の者が、その帰りの道中、博打に負けたうえ、宿で買わされた安女郎にも劣った女たちについて、自分たちの間抜けぶりを、自嘲する、というのがあらすじです。
清元の歌詞の中には帰りのお楽しみの様子が語られており、梵天 (ぼんてん) や、お土産にでも買ったのか、麦わら細工のラッパなどを持って登場しますが、「跡は野となれ山まいり」の歌詞からは、お盆の頃にやってくる借金取りから 「大山参り」を理由に逃れようという、当時の鳶の生活と共に、たくましい江戸っ子気質を感じさせてくれます。
お目当ての女に振られた間抜けなさまを自嘲的に踊った後、新内の「蘭蝶」のクドキ、手拭いの踊りとなり、そして庄内節を踊り、最後は再び旅を続けようとします、江戸の空気が一杯に横溢する踊りです。
- 文政六年 (1823) 八月、江戸森田座初演
- 作詞:二代目桜田治助 [さくらだじすけ]
- 作曲:初代清元斎兵衛 [きよもとさいべえ]
- 五変化『法花姿色々』[のりのはなすがたのいろいろ] のひとつ
- 本名題:『山帰強桔梗』[やまがえりまけぬききょう] 別に『大山参り』とも呼ばれる。
- 初演時、三代目坂東三津五郎が七代目森田勘弥五十回忌追善として踊った
名優三代目坂東三津五郎
歌舞伎舞踊「山帰り」は、江戸時代の名優三代目坂東三津五郎初演に始まり、現在の十代目坂東三津五郎まで好評を博し、代々受けつがれてきた坂東流のお家芸ともいえる大事な踊りです。大山にきわめて所縁の深い演目でありながら、これまで阿夫利神社に奉納舞踊はありませんでした。当代三津五郎は、十代目襲名にあたり、ご神徳への感謝を込めて、大山阿夫利神社ご祭神への「山帰り」舞踊奉納を一つの目標、心願と捉え、実現を長く祈念しておりました。そして、この度、阿夫利神社の快諾を得て、奉納舞踊実現への第一歩を踏み出す運びとなりました。
山帰り奉納HPより
http://www.yamagaeri.com/
2010年8月25日水曜日
相模国三之宮・比々多神社
相模国三之宮・比々多神社
比々多神社HP
主祭神
豊斟渟尊 トヨクムヌノミコト
(またの名を豊国主尊 トヨクニヌシノミコト)
国土創造の神さま 大地・開発・発明・創造
天明玉命 アメノアカルタマノミ コト
玉造りの神さま 不思議な霊力発揮・子宝
雅日女尊 ワカヒルメノミコト
機織りの神さま 衣料
日本武尊 ヤマトタケルノミコト
叡智と武勇の神さま 出世・開運・除災・交通
相殿神(あいどのしん)
大酒解神 (大山祇神)オオサカトケノカ ミ
酒造りの神さま 酒類業・山火鎮護
小酒解神 (木花咲耶姫)コサカトケノカミ
縁結び・子授安全
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比々多神社 posted by (C)TUNE |
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比々多神社_20090101-03 posted by (C)TiMaria |
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比々多神社_20090101-02 posted by (C)TiMaria |
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比々多神社2 posted by (C)菊次郎 |
2010年7月22日木曜日
2010年6月6日日曜日
流鏑馬神事 寒川神社
相模川の河口から約7キロ遡った左岸の低台地上に鎮座する。古代には相模湾がこの辺りまで入り込んでおり、神社からさらに8キロ上流の海老名市国分付近に相模国府があったと考えられている。名神大社として朝廷の尊崇も厚かった。現在も八方除の守護神として関東一円から参拝者が集まる。
延喜式神名帳では「相模国高座郡 寒川神社 明神大」と記載され、大社に列している。
また、行軍中の武田信玄一行が立ち寄ったことでも有名で、信玄はその時、自身の纏っていた兜と太刀を安全祈願に奉納した。現在その1つの兜は寒川神社の方徳資料館に展示されている。
2010年4月24日土曜日
寒川神社 田打舞神事(3/3)
平成7年2月17日に行われた、寒川神社 田打舞神事の模様です。(2/3)
1.田打
2.草敷・代ならし
3.種蒔き
4.苗ほめ
5.昼飯
6.田植
7.稲刈り
8.稲叢(いなむら)
1.田打
2.草敷・代ならし
3.種蒔き
4.苗ほめ
5.昼飯
6.田植
7.稲刈り
8.稲叢(いなむら)
寒川神社 田打舞神事(2/3)
平成7年2月17日に行われた、寒川神社 田打舞神事の模様です。(2/3)
1.田打
2.草敷・代ならし
3.種蒔き
4.苗ほめ
5.昼飯
6.田植
7.稲刈り
8.稲叢(いなむら)
1.田打
2.草敷・代ならし
3.種蒔き
4.苗ほめ
5.昼飯
6.田植
7.稲刈り
8.稲叢(いなむら)
寒川神社 田打舞神事(1/3)
平成7年2月17日に行われた、寒川神社 田打舞神事の模様です。(1/3)
1.田打
2.草敷・ 代ならし
3.種蒔
4.苗ほめ
5.昼飯
6.田植
7.稲刈
8.稲叢(いなむら)
1.田打
2.草敷・ 代ならし
3.種蒔
4.苗ほめ
5.昼飯
6.田植
7.稲刈
8.稲叢(いなむら)
2010年3月29日月曜日
思金神社(おもいかねじんじゃ)
思金神社公式HP
思金神社HPより
くめども尽きぬ高天原の智恵袋
書紀には、思兼(おもいかね)と記されていますが、当神社は古事記に記されてい る思金神名で呼ばれています。「八意(やごころ)」とはこの神格への尊称である。「思金(兼)」の語は、宣長の「古事記伝」八に「思は万葉三に歌思辞思為 師(うたおもひことおもはしし)と云る思ヒにて、思慮なり。金は兼にて、数人(あまたびと)の思慮(おもいはか)る悟りを一(ひとり)の心に兼持てる意なり」一人で兼ね備えているほど頭のいい神様という意味であります。またの名を思金さんとか八意さんともいいます。
高天原に初めて現れたのが天 之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)次に高御産巣日神(たかみむすひかみ)であるが、 生成創造の高御産巣日神の児で、ニニギノ命の母は(萬幡豊秋津師比売命-よろずはたとよあきつしひめのみこと)この神の妹という。何と言っても、思金神の 名声を上げたのは、須佐之男命の悪行がもとで、天照大神が天之岩戸へお隠れになられた時、高天原では、八百万の神々の会議が開かれ、思金神が議長になっ て、諸神に指図した。
まず常世の長鳴鳥をたくさん集めて鳴かせ、伊斬許理度売命(いしこりどめのみこと)に命じて八咫鏡(やたのかがみ)をつくらせ、玉祖 命(たまおやのみこと)には八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)つくらせてこれを大榊の枝に飾り立て、ゆらゆらと揺すり、妙なる音を奏でた。すっかり準備が 整うと、天性の美声の持ち主である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が、祝詞を面白おかしく声高らかに奏する。布刀玉命(ふとだまのみこと)は榊の前で 礼拝する。高天原随一の怪力無双の神・手力男命(たじからおのみこと)による岩戸開門の準備は整った。
思金神社HPより
くめども尽きぬ高天原の智恵袋
書紀には、思兼(おもいかね)と記されていますが、当神社は古事記に記されてい る思金神名で呼ばれています。「八意(やごころ)」とはこの神格への尊称である。「思金(兼)」の語は、宣長の「古事記伝」八に「思は万葉三に歌思辞思為 師(うたおもひことおもはしし)と云る思ヒにて、思慮なり。金は兼にて、数人(あまたびと)の思慮(おもいはか)る悟りを一(ひとり)の心に兼持てる意なり」一人で兼ね備えているほど頭のいい神様という意味であります。またの名を思金さんとか八意さんともいいます。
高天原に初めて現れたのが天 之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)次に高御産巣日神(たかみむすひかみ)であるが、 生成創造の高御産巣日神の児で、ニニギノ命の母は(萬幡豊秋津師比売命-よろずはたとよあきつしひめのみこと)この神の妹という。何と言っても、思金神の 名声を上げたのは、須佐之男命の悪行がもとで、天照大神が天之岩戸へお隠れになられた時、高天原では、八百万の神々の会議が開かれ、思金神が議長になっ て、諸神に指図した。
まず常世の長鳴鳥をたくさん集めて鳴かせ、伊斬許理度売命(いしこりどめのみこと)に命じて八咫鏡(やたのかがみ)をつくらせ、玉祖 命(たまおやのみこと)には八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)つくらせてこれを大榊の枝に飾り立て、ゆらゆらと揺すり、妙なる音を奏でた。すっかり準備が 整うと、天性の美声の持ち主である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が、祝詞を面白おかしく声高らかに奏する。布刀玉命(ふとだまのみこと)は榊の前で 礼拝する。高天原随一の怪力無双の神・手力男命(たじからおのみこと)による岩戸開門の準備は整った。
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