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2012年5月9日水曜日

浦安の舞 阿奈志神社

http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/34500.html


優雅「浦安の舞」37年ぶり奉納 小浜・阿奈志神社で例祭 社会 福井のニュース :福井新聞 via kwout

940年(昭和15年)11月10日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。

1933年(昭和8年)の昭和天皇御製

    天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

が神楽の歌詞となっている。

皇紀二千六百年奉祝臨時祭に合わせて奉奏するために日本全国で講習会が開かれ、海外鎮座の神社でも奉奏されるべく朝鮮・台湾などの外地へも講師が派遣された。奉祝会当日午前10時には全国一斉に奉奏された。以降各神社で舞われるようになり、現在に至っている。

明治以降整備されてきた神社祭祀制度には女性による奉仕に関する規定が無かったが、舞の制定により女性が神社に奉仕する機会が作られた。また全国規模の講習会と奉奏の徹底は神社における神楽舞の普及に大きく貢献した。

尚、浦安の舞などの近代に作られた神楽は国風歌舞や舞楽、神楽舞を下地に創作されたものであり、広義では雅楽の延長線としても捉えられているが、神社祭祀に特化した新たな創作神楽であることから、狭義では雅楽と明確に区分される。特に作曲・作舞した多忠朝は、日本神話を根拠とする神楽舞の重要性、日本文化に於ける神楽の独自性を主張している。

2010年8月18日水曜日

紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」最終日


古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」


紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」1日目


古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」

古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」

紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」



福井県神社庁HPより

岡太神社は延喜神名式に記載されている、今立郡一四社中の一社に比定されてい
る社でその創始は社伝によれば継体天皇が皇子として同国に潜んでおられた頃(499)
の 一日岡太川の上流、水清き宮ケ谷に女神とおぼしきいとやんごとなき一上臈があらわれ「この村里は谷間故田畠少く生計を立てることはむづかしいが幸い清らか な谷水に恵まれているから紙を漉けばよいであろう」と白ら上衣を脱いで竿頭にかけ紙漉く技をねんごろに教えられた。伝習をうけ、いたく喜んだ村人達が名を お尋ねすると「岡太川の川上に住む者よ」とのみ申されただけで姿はいつしかかき消えていた。村人は瞼に残る尊容を川上御前と崇め地主神として、岡太川の上 流宮垣と呼ばれる山腹に岡太神社を建てて紙の祖神岡太の大神としていつき祀ったと伝えている。
爾来村人は世々この神の教示に違うことなく製紙の業 を守り伝えるばかりではなく、岡太大神(川上御前)に対する篤い信仰を深い追慕を基軸としながら、大滝神郷一円を中心に和紙の技術を磨き発展していった。 丁度その頃越の大徳として知られた泰澄大師が養老3年(719)此の地に来て今の大徳山を開き岡太神社(川上御前)を御前立とし国常立尊伊井諾尊を奉祀し 十一面観音を本地佛とした霊場を開き名称を小白山大瀧児大権現(現在の大瀧神社)と称え、別当寺大徳山大瀧寺を建立し、社僧を置き神事を掌らしめる一方、 大いに製紙家を保護し写経用紙と護符紙の確保に努めたので、岡太神社も大瀧神社と共に著しく興隆していった。かくて鎌倉時代には国内有数の大社となったこ とは国内神名帳によっても明かである。この問岡太神社の名前は大瀧児大権現の陰にかくれ表には出なかったものの朝倉家の保護の下に奉吉紙を初めとしてこの 神郷一円に製紙技術が益々発達するに及んで製紙の守護神として岡太大神(川上御前)に対する尊崇は弥々篤く、その技法は修験者によって各地に広められて いった。然るに延元2年(1337)には足利軍の兵火に回録した為それ以後は大瀧児大権現に合祀され、大瀧児大権現(大瀧神社)の摂社となったが越前和紙 のすばらしい技法は中世末より近世にかけて山陰、九州地方をはじめ、奥羽・関東方面にまで伝播してゆき製紙の神として岡太の大神の崇敬は連綿として絶える ことな
く、御分霊を奉齋する者、あとをたたない有様であった。殊に大正12年7月内閤印刷局抄紙部において紙幣を漉くにあたり、その守護神として 岡太神社の御分霊が奉祀されるや、全国紙業界の総鎮守と仰がれ、奉祀されるばかりでなく現在は紙幣の神として金運招福、商売繁昌の神として全国より強い信 仰を受けるに至っている。昭和28年12月、全国紙業並びに氏子崇敬者の懇請により、大瀧神杜の摂社より新たに宗教法人として一社独立し今日に至ってい る。昭和59年10月社殿を再興当時(江戸初期)の姿に解体修理復元し現在は町文化財として指定されている。
御祭神 岡太大神













大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ修験場の霊場で明治元年まで正一位小白山大瀧六所権現児御前と称えられ、神領七〇余町、日野川以東の村落四八ケ 村を氏子とする国内有数の大社であった。その創始は社伝によると、推古天皇の御代(593)大伴連大瀧の勧請に始まると伝えられ次いで鎮護国家法師で白山 を開き越の大徳として知られた泰澄大師が元正天皇の命を受け国家安泰疫病鎮護の為、養老3年(719)当地に来り既に霊山と仰がれていた大峰山(大徳山) に登り17日の参籠、祈願をこめた後、地主神として岡太川の上流に祀られていた紙祖神岡太神社(式内論社)を御前立とし国常立尊、伊弊諾尊の二柱の神を主 祭神として配し十一面観音を本地佛として、山上山下に社殿堂宇を建て、霊場を開き別当寺として、大徳山大瀧寺を建立社僧を置いて神事を掌らしめる一方、護 符や写経用紙を確保する為製紙の保護発展に努めるに及んで社運著しく隆興した。特に鎌倉時代には堂塔伽藍は立ち並び四八坊を有するまでに至り社僧六七百を 擁する一大勢力を有した(国内神名帳参照)。その後興国2年(1341)新田勢と共に足利の軍に抗し兵火に罹り一時衰頽したが室町時代の中葉、国主朝倉氏 の帰依篤く、同一族の祈願所となるや再び興隆、宗教上においても軍事、経済上においても名実共に最大の勢力をもつに至った。それにつれて当社の山城である 大瀧城は五つの出城も出来難攻不落を誇ったと伝えら
れる。かくて年中の神事も七〇余度、殊に3月の八講、9月の仁王講など春秋の大祭礼には上宮 (奥ノ院本宮)より下宮(里宮)までいつも神幸がなされ、競馬、流鏑馬、湯の花の神事など行われ、参拝者は遠近を問わず引きも切らない有様であった。然し 織田信長一揆征伐の際、瀧川一益によって大瀧城は落城したので四八坊と言われた社域の堂塔はことごとく焼き尽くされ一時は全く衰退したものの、秀吉徳川代 々の保護もあり特に松平氏は大いに社殿を再興した。内でも天保14年(1843)改築された本殿は八棟造に隙き間もなく施された彫刻の精巧さ、又屋根の形 態は現在知られている神社社殿のなかでは最も複雑な型をもっており江戸末期の代表的建築である。更に福井藩主秀康以来歴代の奉賽は欠けることなく崇敬の実 を示されている。
明治元年、社号を大瀧児神社と改め、同8年21月郷社に列せられ岡本村の総社氏神となり社号も大瀧神社と改称。同22年には山上 奥の院の末社の内天照大神、春日・八幡社を一社(春日神社)に統合合祀し、水分神を摂社岡太神社に次いで明治41年山上(奥の院)の別山鎮座八坂神社(須 佐能男命)を境内社に合祀八照宮と改称。昭和3年11月13日本社大瀧神社の社歴を案じて県社に列せられた。昭和59年5月下宮本殿拝殿が重文に指定され たその記念事業と、平成の御大典の記念をかね下宮の本、拝殿屋根の葺替え及び神門、廻廊、奏楽殿の造営を行い平成3年7月完成同4年5月竣功祭を行う。

御祭神
国常立尊
伊弊那諾尊
伊弊那美尊

古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」1日目
古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」最終日

2010年4月1日木曜日

曹洞宗大本山永平寺(えいへいじ)

曹洞宗大本山永平寺        山号 吉祥山(きちじょうざん)

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道元(どうげん)禅師

諡号 仏性伝東国師、 承陽大師


建暦3 年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。
建保2 年(1214年) 天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。
建保3年(1215年)  三井寺の公胤の 元で天台教学を修める。
建保5年(1217年)  建仁寺にて栄西の 弟子明全に 師事。
天福元年(1233年)   京都深草に興聖寺を開く。
寛元元 年(1243年)  7月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。
寛元2年(1244年)  傘松に大佛寺を開く。
寛元4年(1246年)  大佛寺を永平寺に改め、号も希玄と改める。
宝治2~3年(1248-49年) 執権北条時頼、波多野義重らの招請により鎌倉に 下向する。
建長5 年(1253年)   病により永平寺を貫首を、弟子孤雲懐奘(『正法眼蔵随聞記』を編す)に譲り、
  俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す、享年54(満53歳没)。




仏殿    別名 
覚王宝殿(かくおうほうでん)
永平寺(福井県吉田郡永平寺町)
永平寺(福井県吉田郡永平寺町) posted by (C)勝屋久の情熱∞日本紀行