2012年2月17日金曜日

粥試神事

http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/070201.html
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『延喜式神名帳』に「阿射加神社三座」とあり、現在では三重県松阪市小阿坂町の阿射加神社と大阿坂町の同名神社がその論社とされている。両社は松阪の平野を見渡す阿坂山東麓に東面して建つなど立地条件を同じくし、ともに近世まで「龍天明神」と俗称されるなど共通した信仰を有するものであり、また両社の距離も1kmに満たない。後述するように、式内「阿射加神社」は当初阿坂山上に鎮座していたとされ、阿坂山上から山麓への遷座を小阿坂とするか大阿坂とするかによって説が分かれるのであるが[1]、他に、両社は3座の中の2座で別に1座があるとする説もあり[2]、更に、当地一帯は伊勢神宮の外宮の御厨(阿射賀御厨)とされていたが[3]、延元4年(1339年)の神宮の神領目録である『給人引付并神領目録』には、これが「大阿射賀御厨」・「小阿射賀御厨」と2分されていることから、両社はその分割に際してそれぞれの御厨に鎮守神として勧請されたものと見ることもできる。

『皇太神宮儀式帳』に、倭姫命が藤方片樋宮において天照大神を奉斎していた時に、垂仁天皇の使者である阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を平定したとあり、『倭姫命世記』には、「阿佐加之弥子(阿坂の峰)」に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がいて通行の邪魔をするので、その心を和ませるために山上に神社を造営し、外宮祀官度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)に祈らせた、とあり、同書所引の一書にも、「阿佐賀山」に荒神(あらぶるかみ)がいて、倭姫命の「五十鈴川上之宮」(現内宮)への巡行を阻むので、かつて阿坂国(当地一帯の古称)[4]を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫である大若子命に、その荒悪神(あらぶるかみ)を祀らせるとともに神社を建立した、とあり[5]、この「悪神」や「伊豆速布留神」や「荒神(荒悪神)」が当神社の祭神で、本来は当地一帯を領有する神であったが、後に水田耕作における水神信仰と結びついて、上述した「龍天明神」の俗称を得たものと見られている。一方、祭神が3座とされていることについては、出口延経が、当地は『古事記』に猿田彦神が溺れたと伝える伊勢国阿邪訶の地であり、その時に化生した猿田彦神の3つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)が当社祭神の3座であると唱え(『神名帳考証』)、本居宣長もこの説を襲って(『古事記伝』)以来、上述の「荒振る神」の様態と、「記紀」の天孫降臨段に記す猿田彦神のそれが重なり合うことから、当社祭神3座を猿田彦神の3つの御魂と見るのが有力な説となっており、現在の両阿射加神社も、祭神として猿田彦神・伊豆速布留神を掲げている。なお、古代の海士はワタツミ三神や住吉三神・宗像三女神に認められるように、「3」を聖数視しているので、当社祭神が猿田彦神の3つの御魂であるならば、本来当地の海士がその3つの御魂を奉斎していて、そこから『古事記』の伝承が生まれたと見ることもできる[6]。

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