2010年6月6日日曜日
雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)
ご祭神
磐長姫尊(いわながひめのみこと)
---Wikiより---
創建時期や由緒は不詳。『伊豆国神階帳』に「従四位上・石戸の明神」と記され、また延喜式神名帳に「伊波乃比咩命神社(いわのひめのみことじんじゃ)」と記された神社である、と伝えられるが、決 め手となる史料は見つかっていない。
『豆州志稿』には「『石戸の明神』とは、海中に浅間門と呼ばれる石門があるため」との記述があり、実際に烏帽子山の南側800mほどの海上にある千貫門(せんがんもん)がこれに相当すると考えられている。 また社伝によると、本殿が台風によって飛ばされて海中に落ちたため、明暦3 年(1657 年)に再建されたという。
永らく神仏習合で修験者なども多く訪れていたとされるが、明治維新の際の神仏分離によって神社と なり郷社に列せられた。第二次世界大戦後に社格制 度が廃止されて以降は地元の人々の管理に委ねられている。
※うつくしい写真がたくさんあるサイトです。心があらわれるようです。
ご鎮座地
静岡県賀茂郡松崎町雲見386-2
流鏑馬神事 寒川神社
相模川の河口から約7キロ遡った左岸の低台地上に鎮座する。古代には相模湾がこの辺りまで入り込んでおり、神社からさらに8キロ上流の海老名市国分付近に相模国府があったと考えられている。名神大社として朝廷の尊崇も厚かった。現在も八方除の守護神として関東一円から参拝者が集まる。
延喜式神名帳では「相模国高座郡 寒川神社 明神大」と記載され、大社に列している。
また、行軍中の武田信玄一行が立ち寄ったことでも有名で、信玄はその時、自身の纏っていた兜と太刀を安全祈願に奉納した。現在その1つの兜は寒川神社の方徳資料館に展示されている。
2010年6月4日金曜日
大室山浅間神社(おおむろやませんげんじんじゃ)
美しい円錐の山です。
ご祭神
磐長姫命(いわながひめのみこと)
---Wikiより---
創建時期や由緒は明らかでない。全国各地におよそ2000社あるといわれる浅間神社の中でも珍しい、
祭神を磐長姫命(いわながひめのみこと)のみとする神社で ある。その妹である木花開耶姫命(こ
のはなさくやひめのみこと)や父である大山祇神(おおやまつみのみこと)を祀る富士山、および
富士山本宮浅間大社と対を成すものとする説もある。
社伝では「磐長姫命が、父の計らいで妹と共に天孫である瓊々杵命(ににぎのみこと)に嫁いだが、
彼女が瓊々杵命の子を身籠ったものの大山祇神の許へ返されてしまったため、当所に産殿を設けて
無事に出産した」とされている。日本神話として日本書紀や古事記などに同様の記述がみられるが、
彼女が身籠ったことや産殿の場所については言及がない。
磐長姫命が岩のような永続性を表す神であることから不老長寿や安産、さらには海上安全や家内安
全、学問や縁結び の神としても知られている。
戸隠神社・中社 樹齢700年の御神木
祭神
天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
由緒・ご神徳
素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったという神です。学業成就・商売繁盛・開運・家内安全に御神徳があります。社殿天井には平成15年に復元された狩野派の天才絵師、河鍋暁斎によって描かれた「龍の天井絵」があります。
また、境内には樹齢700年を超えるご神木、樹齢800年を超える三本杉があり、戸隠神社の社務所が置かれています。
2010年6月3日木曜日
2010年6月2日水曜日
2010年6月1日火曜日
大山祇神社抜穂祭 一人相撲二番・三番勝負
毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事である。「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた広義の力くらべである「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。
この神事については「三島大祝安積の松山寺社奉行所差出書」(宝永4年(1707年))に5月5日・9月9日に相撲を取らせたとあり、また大三島の瀬戸地区(現 今治市上浦町南東部)の向雲寺住職慈峯が享保20年(1735年)に「端午(5月5日)神事の節於宮浦邑の斎事有其内瀬戸の独り相撲と名乗る儀式あり役人は甘崎(瀬戸に隣接する地区)より出候得共瀬戸と名乗る」と記しており、古くからの神事であったことが察せられる。(貞治3年(1364年)の書物にも相撲奉納の記録が残る。)
春の御田植祭の時には、お田植神事の前に、そして秋の抜穂祭の時には、抜穂神事の後に行われており、稲の精霊が勝つことによって、春には豊作が約束され、秋には収穫を感謝するという神事である。全国的にも珍しく、昭和39年(1964年)に愛媛県の無形文化財の指定を受け、昭和52年(1977年)に県の無形民俗文化財に指定替えになる。
記録によると江戸時代は現在の今治市上浦町瀬戸の力士によって行われ、一番勝負であったとされる。また、明治以降の力士として、堀田金八、藤原岸蔵、藤原初治、越智直治、松岡栄太郎、藤原忠八、元岡敬、藤原荒市などの氏名が記されており、いずれも10年20年と奉仕してきたようである。また、現在使われている「一力山」という四股名は藤原百千氏の命名による。
昭和59年(1984年)を機に途切れていた一人角力は、大三島中学校教諭 越智秀雄のはたらきかけにより、平成2年の愛媛県地域生活文化研究発表会で大三島中学校生徒により披露されることとなり、以後同中学校において伝承文化発表会で毎年熱演されている。平成6年~10年の間には、大三島中学校生徒会 会長・副会長による一人角力が実際の御田植祭と抜穂祭でも奉納された。現在、しまなみ海道開通(平成11年)を契機として、地元の若者の中から菅貞之(力士)・多和祥栄(行司)の2人により成人の一人角力復活がなされている。
古の百景: 大山祇神社抜穂祭 てっせん
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