目黒不動尊
所在地
〒153-0064 東京都目黒区下目黒3-20-26大きな地図で見る
目黒不動尊 公式HP
境内案内に写真入りで説明があります。
目黒不動尊 posted by (C)たけぽ
仏さま
目黒不動尊 #16 posted by (C)mikion
不動明王さま
目黒不動尊 #29 護衛不動尊 posted by (C)mikion
地藏菩薩さま
目黒不動尊 #28 延命地蔵尊 posted by (C)mikion
愛染明王さま
目黒不動尊 #25 愛染明王 posted by (C)mikion
観世音菩薩さま
目黒不動尊 #23 微笑観世音菩薩 posted by (C)mikion
目黒不動尊 #12 龍の水口 posted by (C)mikion
お不動さま
目黒不動尊 #8 水かけ不動 posted by (C)mikion
境内動画
参照
目黒不動尊の歴史散歩
目黒区HP 目黒不動(瀧泉寺)案内
http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/jinss/ss6ryusen.asp
当山の開基は、今から1200年前の【平安時代】(808)にさかのぼります。
十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、師の広智阿闍梨に伴われて、故郷下野国から比
叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄られました。
その夜の夢に、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をし
た神人が枕の上に立ち現れて『我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思ふなり。来って我を
渇仰せん者には、諸々の願いを成就させん。』と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し自ら、像を彫刻し
て安置したのに創まります。(ご尊像は秘仏として12年に一度、酉年にご開帳されます)
目黒不動尊ご詠歌
清らけき目黒の杜の独鈷滝
災厄難を除ける不動尊
清らけき目黒の杜の独鈷滝
災厄難を除ける不動尊
聖観世音ご詠歌
身と心 願いみちたる不動瀧
目黒の杜におわす観音
身と心 願いみちたる不動瀧
目黒の杜におわす観音
五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)
泰叡山 瀧泉寺 目黒不動 目黒区下目黒3-20-26
竹圓山 教学院 目青不動 世田谷区太子堂4-15-1
大聖山 南谷寺 目赤不動 文京区本駒込1-20-20
養光山 永久寺 目黄不動 台東区三ノ輪2-14-5
牛寶山 最勝寺 目黄不動 江戸川区平井1-25-32
神霊山 金乗院 目白不動 豊島区高田2-12-39
慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))
竹圓山 教学院 目青不動 世田谷区太子堂4-15-1
大聖山 南谷寺 目赤不動 文京区本駒込1-20-20
養光山 永久寺 目黄不動 台東区三ノ輪2-14-5
牛寶山 最勝寺 目黄不動 江戸川区平井1-25-32
神霊山 金乗院 目白不動 豊島区高田2-12-39
慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。 Wiki
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。 Wiki
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