2011年2月21日月曜日

大山阿夫利神社(おおやま あふりじんじゃ)

大山阿夫利神社の神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすことからこの名が起こったといわれ、標高は、1251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっています。阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきました。

山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいます。山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っており、 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣(こくへい)の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運長久を祈られました。

引目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統に守られた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されており、全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの景色もすばらしく、多くの人達に親しまれ、常に参詣するひとが絶えません。
大山阿夫利神社HPより
http://www.afuri.or.jp/index.html

大山阿夫利神社Wiki


火祭薪能
今から300年前の元禄時代に誕生した大山能は、途中戦争によりやむなく中断されましたが、関係者の努力により戦後復活し今日に到り今年第30回目となります。
「能」は観世流宗家(観世清和師)・「狂言」には大蔵流狂言(山本東次郎師)をお迎えし、当代最高峰の演技が上演されています。
また、地元で精進を続けている大山狂言座や大山進謡会のメンバーによる狂言や仕舞なども披露されます。
今年は10月5日・6日の両日となります。



山帰り奉納HPより
大山参り
「大山参り」というのは、現在の神奈川県大山の山頂に鎮座する「大山阿夫利神社 (おおやまあふりじんじゃ)」に、旧暦六月から七月にかけ参拝するもので、江戸期の人々に、富士山の霊験を信仰する「富士講 (ふじこう)」とならび、大変人気の高い民間信仰です。
とりわけ「大山参り」は、富士よりも江戸に近く、中でも鳶 (とび) や大工といった高所で仕事をする職人衆が、安全祈願のため、その昔は両国橋のたもとの垢離場で水垢離をとり、梵天 (幣束) と一丈余の太刀を押し立て参詣に繰り出します。大山に着くと、御師と呼ばれる先導師の宿坊に泊まり、翌朝参詣登山をします。参詣者はお清めした木太刀を奉納し、かわりに神前から別の木太刀を受けて、それを持ち帰って自宅の神棚に祀っていたと言われています。「大山参り」の人気は、江戸から気軽に行けるということだけではなく、行き帰りの道中、宿場に博打場や遊興の場などが点在していたことも、その理由だったようです。当時江ノ島や周辺の遊山は人気が高く、また東海道の各宿場にも博打場や遊郭があったようで、鳶や大工といった職人が「大山参り」を口実に出かけて行くのも、お盆の頃に詣でる「盆山」の頃が多かったといいます。現在も沢山の講中が崇敬者を集め、先導師の宿坊を足場として参拝に訪れています。


歌舞伎舞踊 山帰り
歌舞伎舞踊の中には、江戸時代を元気に、しかも、たくましく生きた庶民の生活や風習を描いた作品が数多くあります。特に江戸っ子の夏の信仰を描いた作品に「大山参り」を題材とした、『山帰り』があります。
大山の石尊社 [しゃくそんしゃ] へ参詣した鳶の者が、その帰りの道中、博打に負けたうえ、宿で買わされた安女郎にも劣った女たちについて、自分たちの間抜けぶりを、自嘲する、というのがあらすじです。
清元の歌詞の中には帰りのお楽しみの様子が語られており、梵天 (ぼんてん) や、お土産にでも買ったのか、麦わら細工のラッパなどを持って登場しますが、「跡は野となれ山まいり」の歌詞からは、お盆の頃にやってくる借金取りから 「大山参り」を理由に逃れようという、当時の鳶の生活と共に、たくましい江戸っ子気質を感じさせてくれます。
お目当ての女に振られた間抜けなさまを自嘲的に踊った後、新内の「蘭蝶」のクドキ、手拭いの踊りとなり、そして庄内節を踊り、最後は再び旅を続けようとします、江戸の空気が一杯に横溢する踊りです。
文政六年 (1823) 八月、江戸森田座初演
作詞:二代目桜田治助 [さくらだじすけ]
作曲:初代清元斎兵衛 [きよもとさいべえ]
五変化『法花姿色々』[のりのはなすがたのいろいろ] のひとつ
本名題:『山帰強桔梗』[やまがえりまけぬききょう] 別に『大山参り』とも呼ばれる。
初演時、三代目坂東三津五郎が七代目森田勘弥五十回忌追善として踊った

名優三代目坂東三津五郎
歌舞伎舞踊「山帰り」は、江戸時代の名優三代目坂東三津五郎初演に始まり、現在の十代目坂東三津五郎まで好評を博し、代々受けつがれてきた坂東流のお家芸ともいえる大事な踊りです。大山にきわめて所縁の深い演目でありながら、これまで阿夫利神社に奉納舞踊はありませんでした。当代三津五郎は、十代目襲名にあたり、ご神徳への感謝を込めて、大山阿夫利神社ご祭神への「山帰り」舞踊奉納を一つの目標、心願と捉え、実現を長く祈念しておりました。そして、この度、阿夫利神社の快諾を得て、奉納舞踊実現への第一歩を踏み出す運びとなりました。

山帰り奉納HPより
http://www.yamagaeri.com/

2011年2月14日月曜日

大室山山焼き

大室山火口

700年以上続いている大室山の山焼きは、伊東の春を告げる伝統行事です。

伊豆高原大室山登山リフトHP
http://1st.geocities.jp/omuroyama580/

今年は雪のため、順延されてるようです。20日にされるようです。
ブログのほうで景色がみれます。
http://ameblo.jp/ohmuroyama/


白いやま


yamayakitaikai2011

2008年の山焼きの写真
山焼き



関連記事
古の百景: 大室山浅間神社(おおむろやませんげんじんじゃ)

2011年2月6日日曜日

節分

節分は、季節の分かれ目の意味で、元々は「立春」「立夏」「立秋」「立冬」のそれぞれの前日をさしていた。節分が特に立春の前日をさすようになった由来は、冬から春になる時期を一年の境とし、現在の大晦日と同じように考えられていたためである。

立春の節分に豆をまく「豆まき」の行事は、「追儺(ついな)」と呼び、中国から伝わった風習である。「追儺」の行事は、俗に「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」と呼ばれ、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、文武天皇の慶雲3年(706)に宮中で初めて行われた。一般的に豆まきに使う豆は炒った大豆であるが、豆まき後の掃除が簡単なことや、まいた豆も食べられることから、地方によっては落花生を用いるところもある。
鰯(いわし)の頭を、柊(ひいらぎ)の小枝に刺して戸口に挿す風習は、近世以降行われるようになったもので、これも魔除けのためである。---語源由来辞典より---


季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。
節分の行事は宮中での年中行事であり、延喜式では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた。『続日本紀』によると706年(慶雲3年)にこの追儀が始まり、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年(文安4年)に「鬼外福内」を唱えたと記されている。近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった。一部の地域では、縄に柊やイワシの頭を付けた物を門に掛けたりするところもある。---Wikiより---



豆で邪気を祓う

節分の日は、豆まきをして「鬼(邪気)」を払います。
豆まきには悪魔のような鬼の目"魔目〔まめ〕"にめがけて豆を投げれば"魔滅〔まめ〕"すなわち魔が滅するという意味があると考えられています。これらの意味から、豆は鬼を払う道具でありながら、鬼そのものととらえられていたようです。そのため、節分の豆まきの際は鬼である豆を家の外に投げながら「鬼は外」と唱えます。
豆まきの他、鬼を払うため鬼が嫌う柊〔ひいらぎ〕の枝に鰯〔いわし〕の頭を刺したものを戸口に立てておいたり、炒った大豆を年の数だけ食べるなどの習慣が現代も続いています。
また、古来鬼は"陰〔おに〕"と言われ、姿の見えない災いなどを総合的に指す言葉でした。しかし、陰陽五行説(※)の考え方を用い占いを行うようになり、鬼は「毛むくじゃらで身のたけが高く、赤や青色の皮膚をしており、筋肉質で丑寅〔うしとら〕の方角から来る」などの具体的な形に変化したそうです。

※…中国の春秋戦国時代に発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のことです。
--- 日本文化いろは事典より---

深大寺HPより










晴明神社





下鴨神社 古式に則った宮中行事の流れを汲む節分祭を行っておられ、正月に宮中で行われた「射礼の儀」と呼ばれた追儺弓神事を行います。鬼がでてきません。


 三嶋神社HPより

2011年2月5日土曜日

酒列磯前神社(さかつら いそさき じんじゃ)



酒列磯前神社の創建は『文徳実録』によると、856年(斉衡3年)である。中世には廃絶し社殿もなくなっていたが、近世になって、水戸藩主徳川綱條により再興される。

酒列磯前神社は岬の高台の上に西向きに鎮座している。岬は陸地と海原の境界である。岬はこの世と異界の境界であると同時に両者を繋ぐところでもあるのである。

酒列磯前神社は大洗磯前神社とともに2社で一つの信仰を形成しているが、これは珍しいことではない。鹿島神宮と香取神宮の例や熊野三山の例がある。交通の便も悪いことから、現在では大洗磯前神社と比べると寂れていると言わざると得ない。この神社は安産育児の神、医療の神、造酒の神などとしても信仰されている。

二の鳥居には、昭和の名人石工飯塚兵吉が彫った狛犬が鎮座している。

大洗町の大洗磯前神社と深い関わりを持ち、2社で一つの信仰をなしている。





酒列磯前神社,樹叢(じゅそう)について

酒列磯前神社は主祭神少彦名命,配祀神大己貴とする神社です。創建は不明ですが「文明実録」の天安元年の条に「酒列磯前神」という記述があることから,これをさかのぼると考えられます。
本社が現在地に遷宮したのは元禄15年(西暦1702)。【元禄3年(1690)に本社を参拝した義公(第二代藩主徳川光 圀)は,遷宮を命じ元禄12年に現在地への遷宮が決定され建設着手。義公の死去により一時中断。粛公(第三代藩主綱條)により元禄14年に復興。】現在に 至る。鳥居から拝殿まで続く参道両脇の樹叢は,手厚く保護されてきて現在の樹叢が形成されたものと考えられます。通称「椿山」と呼ばれており,現在もツバ キの巨樹が数本存在しています。
樹種の構成はタブノキ,スダジイ,ヤブツバキ,ヒサカキ,モチノキなどの常緑広葉樹を主体とし,エノキ,ケヤキなどの落葉広葉樹とスギ,クロマツ(常緑針葉樹)が点在します。
この結果から,シイ類やカシ類,クスノキ,タブノキ,ヤブニッケイ,シロダモ,ツバキなどの構成種で特徴づけられる照葉樹林 と位置付けられました。照葉樹林としての特徴が比較的良好に保存されており,本来この地域に成立していたであろう森林の姿を知る上で極めて貴重な存在で す。--ひたちなか市HPより--
 
茨城県神社庁HP 酒列磯前神社 http://www.oyashiro.or.jp/link/0006.html