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2011年4月30日土曜日
金戒光明寺 (こんかいこうみょうじ) 黒谷さん(くろたにさん)
熊谷直実
直実は1192年(建久3)久下直光との所領争いに敗れ、自ら髪を断ち、上洛して安居院の澄憲のもとを訪れて出世の要道を問う。「自らは戦の中にあって多 くの人をあやめてきた。 その自分が浄土往生するためにはどうすればよいのか」といった質問をぶつけたようであるが、法然上人は「罪の重い軽いをいうよりも、ただ念仏を申しなさ い。そうすれば必ず極楽に生まれることができます」と。 直実は涙を流しながら「自分は手足を切り落としでもしないかぎり救いはないと思っておりましたし、そうするつもりでおりました。ところがお念仏さえすれば よいというお言葉に感涙してしまいました」と、その胸中の苦悩をもらしている。
関連
古の百景: 紫雲山 金戒光明寺 (こんかいこうみょうじ) 黒谷さん(くろたにさん)
2011年4月22日金曜日
壬生狂言 壬生寺 (みぶでら)
壬生狂言 壬生寺 (みぶでら) 壬生狂言を正しくは「壬生大念佛狂言」と言い「壬生さんのカンデンデン」という愛称と共に、古来から京の庶民大衆に親しまれてきました。この壬生狂言は今から700年前の鎌倉時代、壬生寺を大いに興隆した円覚上人(1223~1311)が始めたものです。近世に入ると庶民大衆の娯楽としても発展し、本来の宗教劇のみならず、 能 や物語などから色々と新しく取材され、曲目やその数も変遷して現在上演されるものは、30曲であります。しかし、一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、すべての演者が仮面をつけ、一切「せりふ」を用いず無言で演じられる壬生狂言の形は変わらず、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を今日まで残しています。
壬生寺HPより
http://www.mibudera.com/kyougen.htm
演目
1 愛宕詣り 16 道 成 寺
2 安達が原 17 ぬ え(鵺)
3 大 江 山 18 橋 弁 慶
4 大 原 女 19 花 折
5 桶 取 20 花 盗 人
6 餓鬼角力 21 舟 弁 慶
7 蟹 殿 22 炮烙 割り
8 熊 坂 23 堀川 御所
9 賽の河原 24 本 能 寺
10 酒蔵 金蔵 25 棒 振
11 節 分 26 紅 葉 狩
12 大仏供養 27 山端とろろ
13 大 黒 狩 28 湯 立
14 玉 藻 前 29 夜討 曽我
15 土 蜘 蛛 30 羅 生 門
2011年4月17日日曜日
能郷の能狂言(のうごうののうきょうげん) 能郷白山神社
本巣市HP
http://www.city.motosu.lg.jp/life/kyouiku/culture/hounou/
能郷の能狂言(のうごうののうきょうげん)
演目
1 能 :式三番(露払い・翁・三番叟) しきさんばん(つゆはらい・おきな・さんばそう 2 狂言:百姓狂言「松いずり葉」ひゃくしょうきょうげん「まついずりば」
3 能 :難波(なにわ)
4 狂言:恵比寿毘沙門(えびすびしゃもん)
5 能 :屋島(やしま)
6 狂言:宝槌(たからづつ)
7 能 :羅生門(らしょうもん)
能郷の猿楽衆16戸は、能方・狂言方・囃子方が決まっていて、それぞれの家で世襲的に口伝えで受け継がれてきたものである。口伝えで伝えられていることもあり、何時頃から始まったかは定かではない。能郷白山神社の火災もあり、現在残っている古文書の最古のは慶長3年の「間狂言間語」である。現存する能面は室町時代以前である。一説では奈良時代、この地に左遷されていた人物が許され、都に戻った際に春日大社の舞楽の面を手に入れて伝えたという。このとき地名を能郷としたという。
現在は観世流や和泉流など流派が定まっているが、それ以前の能楽の源流がそのままの形で残されている貴重な文化遺産であり、1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。
文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=136607&imageNum=0
能郷白山神社(のうごうはくさんじんじゃ)
岐阜県本巣市にある神社。奥宮は能郷白山(標高1617.3m)の山頂にある。元々は奥宮が本宮であったが、地元の人々のために現在の本宮が築かれたという。毎年4月13日の例祭では能郷の能・狂言が行なわれる。現在の社殿は1897年(明治30年)の再建である。
養老2年(718年)、泰澄が加賀国白山比咩神社より勧請し創建。「北陸七白山」の一つという(北陸七白山の他の神社の一つは大山白山神社という)。創建時は「白山妙理権現」といい、虚空蔵菩薩、十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩が祀られていたという。
ご祭神
菊理媛神(白山比咩神・白山権現)
伊弉諾尊
伊弉冉尊
能郷白山神社奥宮 |
2011年4月11日月曜日
鳥羽の火祭り 鳥羽神明社
鳥羽の火祭り
「鳥羽の火祭り」は、数ある日本の祭りの中でも特に異彩を放つ祭礼の1つで、天下の奇祭として知られており、毎年2月の第二日曜日 (旧暦の1月7日前後)に行われている。正式名称は「鳥羽大篝火(とばだいかがりび)」で、2004年に国の重要無形民俗文化財に指定された。鳥羽の火祭りは、その年の天気や作物の出来をすずみの燃え具合などで占う祭りである。西側の福地が勝てば山に雨と豊作がもたらされ、東側の乾地が勝つと、豊作となるが日照りが続くこともあると伝えられるほか、すずみの竹の燃え残りで作った箸で食事をすれば歯の病を防ぎ、同じ竹を養蚕に用いれば豊作になるともいわれている。
幡豆町HPより
http://www.town.hazu.aichi.jp/00kanko/himatsuri_j.htm
鳥羽神明社
http://www.katch.ne.jp/~toba-shinmeisha/himatsuri/index.html
ご祭神
2011年4月6日水曜日
天宮神社 十二段舞楽
静岡県神社庁
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4410002
天宮神社HP
http://www7b.biglobe.ne.jp/~amenomiyajinnjya/index.html
ご由緒
当神社は第29代欽明天皇の頃(約1500年前)に小碓命(日本武尊)の後裔太田の君、
守屋の君の氏族が先祖の遺跡を訪ねてこの地を開き、筑紫の国宗像の御神霊を迎え大氏
神として鎮斎せられたのに始まります。
文武天皇慶雲2年勅願により社殿等の造営がなされ、その折京都から藤原綾足が神官
として赴任し京都の楽人により舞楽が奉納されました。以来十二段舞楽は今日まで連綿
と伝承されてきています。
神社・社殿は、室町時代に焼失し、一時衰退をしましたが、徳川家康公によって社殿
が造営され、その後修営にあたって、遠州横須賀城主の隠岐守西尾忠成公を奉行に幕府
の直参棟梁の甲良豊前宗賀によって完成したのが現在の社殿であるといわれています。
十二段舞楽
天宮神社の十二段舞楽(あめのみやじんじゃのじゅうにだんぶがく)は、静岡県周智郡森町天宮に伝わる民俗芸能の舞楽。東海地方に伝承されている地方化された舞楽の一つで、4月の第1土曜日と日曜日に演じられる。
天宮神社の拝殿前にある高欄つきの舞楽殿が舞台となり、舞人は稚児4人、15歳前後の少年、大人11人で、囃子には大太鼓・鉦・鼓・笛が付く。曲目は「延舞」「色香」「庭胡蝶」「鳥名」「太平楽」「新靺鞨」「安摩」「二の舞」「陵王」「抜頭」「納曽利」「獅子」の12曲である。
1976年(昭和51年)12月25日記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択され、1982年(昭和57年)1月14日には、山名神社天王祭舞楽および小国神社の舞楽とともに遠江森町の舞楽として重要無形民俗文化財に指定された。Wikiより
《歴史》
慶雲2年(705年)に勅願による社殿の造営があり、その折、京都から藤原綾足が神官として赴任し、京人に依って奉納舞楽が行われました。
応仁・文明の乱、地方の戦火の時代に神社の祭祀が途絶えましたが、天正18年(1583年)に再開されて以後、明治維新の変換の時代にも耐え、例祭時に連綿と伝承保存されてきました。
《形態》
この舞楽は宮中・伊勢神宮・四天王寺等のものとは異なり、祭りの庭の芸能的な素朴な赴きの特色を有し、他所では見られぬ形態であります。
一宮の小國神社の舞楽と天宮神社の舞楽は、中央の舞楽で言う左方の舞と右方の舞を演目で区別するというよりも、小國神社は赤の衣装を主とし早いテンポで男性的に舞い、、天宮神社は青の衣装でゆったりとしたテンポで優雅に舞う違いを持ちながら、二社一体の関係で
成立しています。
《演目》延舞・色香・底胡蝶・鳥名・太平楽・新靺鞨・安摩・二の舞・陵王・抜頭・納曾利・獅子
天宮神社十二段舞楽 客神の足跡さんのHPに詳しくでてます。