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2010年7月30日金曜日

神泉苑(しんせんえん)狂言





延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園であった。

史料に初めてその名が見られるのは「日本紀略」の記事であり、延暦19年(800年)7月19日(旧暦)、桓武天皇が行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。

神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。

2010年7月29日木曜日

日本の世界遺産 東寺



東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺。「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。

東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

飛騨一ノ宮 水無神社



飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)は岐阜県高山市(旧・大野郡宮村)にある神社である。「水無」は「みずなし」、「すいむ」と読むこともある。

式内社。飛騨国一宮・総社。旧社格は国幣小社で、戦後は別表神社となった。祭神は御歳大神・天火明命・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称する。祭神の水無大神は地名に由来するものと考えられる。水無大神は、御歳大神とする説の他、八幡神などとする説もあった。位山を神体とする。

紫雲山 金戒光明寺 (こんかいこうみょうじ)  黒谷さん(くろたにさん)

紫雲山・くろ谷 金戒光明寺

金戒光明寺 説明
金戒光明寺 説明 posted by (C)お寺しゃしん


金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。

金戒光明寺010
金戒光明寺010 posted by (C)escassy


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_MG_0045 posted by (C)あまから



鎧かけの松
鎧かけの松 posted by (C)のりりん


承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。そのため比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。後に法然は信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空はこの地に住んだ。その後岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお比叡山では黒谷を現在も黒谷と呼ぶ。第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗 最初門」の勅額を賜った。江戸時代初期に城郭構造に改修された。文久2年(1862年)京都守護職の本陣となった。第二次大戦後「黒谷浄土宗」として一派独立するが現在は浄土宗に合流し七大本山の一翼を担う。御詠歌「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」


2010年7月24日土曜日

那智の滝



那智滝(なちのたき)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川にかかる滝。華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。国の名勝に指定されている(1972年〈昭和47年〉7月11日指定、指定名は「那智大滝〈なちのおおたき〉」)

那智山中には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっている。「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称であった。

しかし、現在、一般に那智滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は現在でも飛瀧神社の神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来る。

滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる。

この滝を写した写真のキャプションとして「熊野那智大社と那智滝」などの様に題して、三重の塔と那智の滝を1枚のフレームに納めたものがある。明治期の神仏分離以前においては、その三重の塔が属する青岸渡寺と熊野那智大社は一体のものであったが、今日においては三重塔は青岸渡寺に属するため「青岸渡寺の三重塔と那智滝」と表記するのが正しい。

2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。

2010年7月23日金曜日

那智山 青岸渡寺(せいがんとじ)

那智山 青岸渡寺(せいがんとじ)

観音さま
観音さま posted by (C)のりりん

IMG_0519青岸渡寺・三重塔
IMG_0519青岸渡寺・三重塔 posted by (C)美輝

「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の礼所であります。当山の縁起によるとその開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。
その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。
平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。
現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。
青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。 青岸渡寺HPより


2010年7月22日木曜日

下鴨神社 賀茂御祖神社 歩射神事

弓矢を使って葵祭の沿道を清める魔除けの神事。 歩射神事は、三日に同神社で行われる馬上の流鏑馬に対して、地上で矢を射ることに由来しており、平安時代 に宮中で行われていた「射礼(じゃらい)の儀」が始まりと伝えられている。 射手が弓を鳴らす「蟇目式(ひきめしき)」で四方の邪気を祓い、鏑矢を楼門の 屋根を越えて飛ばす「屋越式(やごししき)」、大きな的を射る「大的式(おおまとしき)」、連続で矢を射る「百々手式(ももてしき)」がそれぞれ行われ る。また、この四式をもって「鳴玄蟇目神事(めいげんひきめしんじ)」と呼ばれ、賀茂祭(葵祭)の安全祈願とされている。




2010年7月21日水曜日

山代温泉服部神社 茅の輪くぐり神事



天羽槌雄命は、天太玉命に隷属せる天日鷲命の御子にして始めて麻を以て文布を織り給ふて機織の業に特に功を成し給へり。
和銅年間勸請延喜式所載の古社にして、貞観16年5月従五位下を授けられ、社殿の構造宏大にして一に山背郷社とも言へり。
花 山法皇北国下向の際、ここに参拝あらせられ神宝を寄進して厚く之を崇敬し、大聖寺藩主世々其祈願所となし給ひ山背郷民挙って、大神を渇仰せり。天文年間、 朝倉義景の兵火に罹り悉く鳥有に歸し、一時廃社とありしを明治八年七月再興し相殿に座す。菊理姫命御奉斎の白山神社と合併して、郷社に列し明治17年3月 7日懸社に昇格せらる。爾来氏子の崇敬の念は益々篤く旺盛である。平成3年11月山代日子命を増祀する。

日本の世界遺産・京都・延暦寺横川・西塔


横川
西塔から北へ4キロほどのところにある。嘉祥3年(850年)、慈覚大師円仁が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。

横川中堂 - 新西国三十三箇所観音霊場第18番札所。旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。
根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
元三大師堂 - 四季に法華経の論議を行うことから四季講堂とも呼ばれる。おみくじ発祥の地である。
恵心院



西塔
転法輪堂(重文) - 西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺金堂(1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。本尊は釈迦如来立像(重文)。
常行堂・法華堂(重文) - 2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、文禄4年(1595年)の建築である。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「担い堂」の称がある。
瑠璃堂(重文) - 西塔地区から黒谷(後述)へ行く途中にある。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。
黒谷青龍寺 - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。

2010年7月20日火曜日

2010年7月19日月曜日

伊勢神宮 夏越しまつり



神宮の祭りの本義は、天皇が御親ら皇祖天照大神(こうそあまてらすおおみかみ)をおまつりされるところにあります。それは、神勅にもとづき第10代崇神(すじん)天皇の御代までは皇居内で、また皇居を離れられた約2000年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の弥栄、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変ることなくおこなわれてきました。そのことは、かつては斎内親王(いつきのひめみこ)が天皇に代わって神宮にお仕えになり、現在では、祭主(さいしゅ)が天皇の御手代(みてしろ)としてお仕えになっておられることからも理解できることでしょう。このように神宮のまつりは常に歴代天皇のみ心を体して続けられているのです。
神宮には年間に千数百ものお祭りがあります。これらの祭りは、恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)と遷宮祭(せんぐうさい)とに分けることができます。
恒例祭とは、毎年定められた月日に行われるお祭りです。その内、神嘗祭(かんなめさい)と6月・12月の月次祭(つきなみさい)は古来、三節祭(さんせつさい)といわれ、とりわけ重要なお祭りです。これに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)を加えて、五大祭(ごだいさい)と呼ばれます。祈年祭、月次祭(つきなみさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭には、天皇陛下より幣帛(へいはく)が奉られ、月次祭を除くお祭りには天皇が勅使(ちょくし)を差し遣わされます。
神嘗祭は、一年で最も大きなお祭りです。祭器具等を新しくし、その年の新穀をまず天照大神にささげ豊穣を感謝するとともに更なるご神徳をいただくというところにこのお祭りの意義があります。
豊受大神宮(外宮)では毎日、天照大神をはじめ神々に朝夕食事をさし上げるお祭り(日別朝夕大御饌祭・ひごとあさゆうおおみけさい)が鎮座以来欠かすことなく続けられています。
臨時祭とは、皇室・国家に重大事があったとき、臨時に行われるお祭りです。
遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。

2010年7月18日日曜日

2010年7月16日金曜日

世界遺産 法隆寺



法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山である。別名を斑鳩寺(いかるがでら)という。

法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

2010年7月13日火曜日

2010年7月12日月曜日

2010年7月10日土曜日

2010年7月7日水曜日

戸隠神社 中社



戸隠神社 中社 本堂
戸隠神社 中社 本堂 posted by (C)お寺しゃしん


ご祭神
天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)

由緒・ご神徳素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作っ たという神です。学業成就・商売繁盛・開運・家内安全に御神徳があります。社殿天井には平成15年に復元された狩野派の天才絵師、河鍋暁斎によって描かれた「龍の天井絵」があります。また、境内には樹齢700年を超えるご神木、樹齢800年を超える三本杉があり、戸隠神社の社務所が置かれています。
戸隠神社HPより


2010年7月6日火曜日

八咫烏神社




ご祭神
建角身命(たけつぬみのみこと)

『延喜式神名帳』頭註には「八咫烏 賀茂建角身命也」とあり、『新撰姓氏録』では「賀茂建角身命は、神魂命(かみむすびのみこと)の孫で、神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の 曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した」と伝えています。
ところで、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として有名です。
『山城国風土記』逸文によれば、「大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社)に至った後、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神 社)に鎮座なされた」と、されています。

当社のご神紋も下鴨神社と同じ「葵」をかたどった紋ですので、古くから下鴨神社とのつながりがあったものと推察されます。
ただ、下鴨神社が鴨氏の祖神を祭る社であることに対し、当社はむしろ熊野・宇陀地域において太古より語り継がれてきた「ヤタガラス伝承」に基づき信仰さ れてきた社であったと思われます。
---八咫烏神社HPより---




伊那佐山(いなさやま)



山頂には式内社・都賀那岐(つがなぎ)神社があり、祭神としてタカオカミと頬那芸(つらなぎ) 神を祀っている。頬那芸神は灌漑や水に関わる神のようですが、実体はよく分からない。この神を祀っているため、伊那佐山は古来、日照りが続く と岳登りと称して雨ごいのため山頂にお参りしたとされている。



八咫烏神社HP