2010年8月5日木曜日

滝宮天満宮鷽かえ神事



由緒
光孝天皇の御代仁和2年正月16日、菅公御42歳のとき、讃岐の国司に任ぜられ、同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住み給う。現在の神社境内治は、その官舎跡だと伝えられている。ご来任間もなく、国中を巡視し、つぶさに民の疾苦を問い、国民の撫育して大いに治績をあげ教育、勧業その他にわたって仁政を施されたことは歴史に明らかで ある。教育には特に意を注がれ、聖廟を建て、孔子の像を祀って子弟を教養せられた。当社の西北600米、字川西喜来の孔聖神社はその遺跡に建てられたものである。

宇多天皇の仁和4年の大旱は、麦も枯れ、田植も出来ぬ有様で国民の困苦は記語に絶するものがあったと伝えられているが、公はこの人民の苦しみを救うため、 自ら身命を賭して城山に登り断食七日七夜、一心を天神地祇に捧げて祈雨の願文を奏して人民の困苦を救済することを祈り給うた。公の至誠天に通じてか待望の 雨が三日三夜降り続いた。慈雨によろこぶ国民は老若男女を問はず、国司の邸に群集し、歓喜の余り踊舞いつつ徳を謝した。

また寛平元年7月の頃、国内に疫病流行した際、公自ら病家を訪ねて医薬につかせ、一方般若心経を手写して龍燈院に納め、息災護摩を修し、防疫に尽くされたので効験著しく、人民ことごとく公の仁政に感泣したと伝えられる。公任満ちて御帰京にのぞみ、国民皆父母を慕う如く別れを惜しみ川西に奉送す、今もその地名を伏拝みと称している。

慶安元年、松平家初代頼重公のとき、菅公謝徳の古例に因み、毎年社前に執行する念仏踊りは大変貴重な神事として非常に尊敬し、十分に保護する必要があるとして高札(文略す)を下附せられ、最も厳粛に踊を執行せられた。其後数百年を経過し、社殿漸く腐朽するに及んで、桜町天皇の元文6年社殿の修補を行い、更に仁孝天皇の文政5年、国中敬神の土曜起となり、崇敬有志竝大阪 構中より喜捨を仰ぎ、本殿、拝殿、玉垣等を始め諸建物の増改築を見るに及び、其輪奐の美は当国無比と称せられたが、明治6年、西讃の暴民蜂起して処々に散在する役館を焼去したが、当時天満宮西隣龍燈院の一部を役場に使用していたため、同年6月28日類焼の厄に遭い壮麗を誇った社殿は惜しくもその一切を焼失した。

明治21年再び四方崇敬者の喜捨によって再建せられた。現在の社殿はこの時のものであるが大正10年、敬神家の寄進によって御修繕を施した。昭和52年菅公1075年忌祭に際して記念事業として崇敬者の寄進によって、宝物殿・御神門を創建し現在に至っている。

滝宮天満宮HP








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