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2010年12月28日火曜日

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)



現在の祭神は、白山比咩神社社蔵の『神社明細帳』(明治初年)により、白山比咩大神(白山比咩神)、伊邪那岐尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)の三神を祀る。一般には白山(しらやま)さん・白山権現などともいわれる。

創建は崇神天皇の頃とされる。元来は現在の加賀一の宮駅に隣接する古宮公園(安久濤ヶ淵に面する)の場所にあったが、文明12年(1480年)の火事の為に末社の三宮の位置(現在地)に遷座した。奥宮は、白山山頂の御前峰にある。

祭神 菊理媛尊(=白山比咩大神)
日本には、『古事記』や『日本書紀』といった奈良時代初期に完成した古い歴史書に見られる神々を祭神とする神社が数多く存在します。
全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮である白山比咩神社の祭神「白山比咩大神(=菊理媛尊)」も『日本書紀』に登場する女神のひとりです。
『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。

黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。
白山比咩神社では、菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。(白山比咩神社HPより)





































今からおよそ一三〇〇年前。白山の山頂に初めて登ったのが、越前(現在の福井県)の偉い僧で泰澄(たいちょう)という人です。
泰澄は白山麓の舟岡山にある「妙法の窟」にこもって修行し、次に手取川の「安久濤(あくど)の淵」で一心にお祈りをしていました。すると、白い馬に乗った 白山比咩大神が現われ、泰澄に「私は白山に住んでいる女神です。私の本当の姿を見たいと思うなら、白山の頂上へおいでなさい」と告げられました。
泰澄は川を渡り、岩を登り、木の根・草の根を踏み分けてそれまで誰も登ったことがなかった白山に登り、頂上付近の「転法輪(てんぽうりん)の窟」で行を重ねました。
そこへ、翠ヶ池のほとりから九つの頭を持った竜がおどり出してきました。泰澄は「このような恐ろしい竜が白山の神さまの本当の姿とは思えない。これは仮の姿だ。真のお姿をお見せください」と念じると、竜は十一面観世音菩薩に姿を変えました。
泰澄は、「これぞ、まことの白山の神様のお姿にちがいない、ありがたい」と伏して拝まれました。そして、目に焼き付けた十一面観音菩薩を木像にきざまれて、白山の頂上にお祀りしたということです。
翠ヶ池は、別の名を「仏ヶ池」とも言い、岐阜県の方では、この池の水を霊水として多くの人々が壷に入れて持ち帰り、利用していました。
白山の伝説より
http://www.shirayama.or.jp/legend/index.html
ここで他の物語も読めます。


白山市のすばらしい景色を360度パノラマビュー

見応えのある感じのいいHPです。
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)HP

2010年12月21日火曜日

飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)



http://www.hidamiya.com/minashi/
飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)は岐阜県高山市(旧・大野郡宮村)にある神社である。「水無」は「みずなし」、「すいむ」と読むこともある。

式内社。飛騨国一宮・総社。旧社格は国幣小社で、戦後は別表神社となった。祭神は御歳大神・天火明命・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称する。祭神の水無大神は地名に由来するものと考えられる。水無大神は、御歳大神とする説の他、八幡神などとする説もあった。位山を神体とする。
島崎藤村の父・島崎正樹が、宮司を勤めていた神社。島崎藤村の『夜明け前』に登場する青山半蔵のモデルで、境内には、その歌を刻んだの石碑がある。


位山(くらいやま)
位山(くらいやま)は、岐阜県高山市にある標高1,529mの山。 飛騨北部と南部の境界であり宮川と飛騨川の分水界である位山分水嶺の山。 飛騨一宮水無神社の神体である。日本二百名山のひとつ。

位山には岐阜県の県木であるイチイの原生林がある。位山の名前の由来について、朝廷に位山のイチイを笏の材料として献上した際、この木が一位の官位を賜ったことから木はイチイ、山は位山と呼ばれるようになったという説があり、現在でも天皇即位に際して位山のイチイの笏が献上されている。

飛騨生きびな祭り

高山市観光情報HPより
写真や動画などもあります。一度は観光に行ってみたくなります。


狛犬


1945年8月21日から、同年9月19日までの間熱田神宮の神体(天叢雲剣)が一時避難していた。

2010年12月12日日曜日

三峯神社(みつみねじんじゃ)


社伝によれば、景行天皇の時代、日本武尊の東征の際、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登り、伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際に、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。

三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を雲取山と呼んでいる。

中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。しかし、正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われ、衰退した。

文亀年間(1501年 - 1504年)に修験者の月観道満により堂舍が再興され、以降、聖護院派天台修験の関東総本山とされ、隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、三峯大権現と呼ばれた。

江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし、「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。

明治の神仏分離により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。明治16年(1883年)に県社に列した。


筒粥神事
筒粥神事は各地に残る年占の1つである。1月15日に一室に籠もった神職により、宵から15日の暁にかけて行事が行われる。これは、神饌所で炊かれた小豆粥に、36本の葦の筒を漬け、この筒の中に入った粥の量により36種の作物の今年の作柄を占うもので、その結果は印刷され、春先に参拝する信者に分けられる。




三峯講(山犬信仰)
三峰信仰の中心をなしているものに、御眷属(山犬)信仰がある。 この信仰については、「社記」に享保12年9月13日の夜、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる。
また、幸田露伴は、三峰の神使は、大神すなわち狼であり、月々19日に、小豆飯と清酒を本社から八丁ほど離れた所に備え置く、と登山の折の記録に記している。
眷属(山犬)は1疋で50戸まで守護すると言われている。文化14年12月14日に各地に貸し出された眷属が4000疋となり、山犬信仰の広まりを祝う式があり、また文政8年12月2日には、5000疋となり同様の祝儀が行われている。 明治後期の文献と思われる「御眷属拝借心得書」には、御眷属を受け、家へ帰られたならば、早速仮宮へ祀られ注連縄を張り、御神酒・洗米を土器に盛り献饌し、不潔の者の立ち入らぬようにされたいとある。(仮宮へ祀るのは講で受けた場合で、個人で受けた場合神棚でよいとされる)







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