社家町(しゃけまち)
歴史と由来
上賀茂神社には、社家町があります。門前を流れる明神川沿いに建つ町並みを社家町というそうです。
社家とは神社に仕える神官の住まいで、上賀茂神社の神職を世襲してきた家の町です。
代々、賀茂氏族の子孫に限られてい たそうで、門前の石橋や土塀、上賀茂神社の本殿より、高くあっ
てはならないため、棟の低い母屋など、独特の景観で、家の内部は、表(はれ)の座敷と、普段の生
活の場とに、分かれているそうです。屋根には懸魚(けぎょう)という寺院風の飾りを施し、ほとん
どの家が、川から、屋敷の池に水を引き入れ、また、川に戻し ているそうです。
伝統的建造物群保存地区に、指定されています。社家町は呼称で、住所名は、池殿町・中大路町・南
大路町一帯です。
文化遺産オンライン
京都市上賀茂(社家町 京都) きょうとし かみがも(しゃけまち きょうと)文化遺産オンライン
京都市上賀茂伝統的建造物群保存地区 【社家町】 きょうとしかみがも
動画
明神川沿いの藤ノ木社とくすの巨木
土塀に挟まれた小径から明神川を望む
---社家と一族---
賀茂七家
松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本を賀茂七家と呼ぶようです。明治時代まで、神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝など、九職を務めていたようで、今も健在のようです。歴史は、古くは、賀茂氏人の中から、選んでいたが、鎌倉時代以降、後鳥羽天皇の長子と言われる、氏久の系統につながる家々が、勤めるようになったようです。江戸時代には、275軒の社家が存在したそうです。
松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本を賀茂七家と呼ぶようです。明治時代まで、神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝など、九職を務めていたようで、今も健在のようです。歴史は、古くは、賀茂氏人の中から、選んでいたが、鎌倉時代以降、後鳥羽天皇の長子と言われる、氏久の系統につながる家々が、勤めるようになったようです。江戸時代には、275軒の社家が存在したそうです。
『上ル下ルの京の町』(京都新聞社編・発行 1977)に、記載があるようですが、私はまだ、読
んだことはないです。図書館で聞いてみようと思ってます。
賀茂十六流
鎌倉時代以前ではというと、氏、平、清、能、久、俊、直、成、重、幸、季、保、宗、弘、顕、兼(経)の中から、上賀茂神社の世襲制の神職が選ばれていたようです。『賀茂祢宜神主系図』データベースの作成と近世上賀茂社家の基本統計 ..
梅辻家
京都市観光文化情報システム via kwout
京都大学学術リポジトリ
明治以降の上賀茂社家町における池と水路網の水システムの変遷
雑感
ここ梅辻家は特別公開でしか、見ることはできないようです。
社家町には、有名なすぐきの買える漬物屋さんがあります。
賀茂氏の家系は、その後いくつかの姓を生み出し(賀茂16流)、その中で位の高い神職に就いた家が『賀茂七家(かもしちけ)』と呼ばれました。
明治維新以後は、神職の世襲制が廃止されましたので、社家のほとんどの方々は職を離れました。今も数名の方が神主をされていますが、上賀茂神社にお勤めの方はたった一人だけです。
明治維新以後は、神職の世襲制が廃止されましたので、社家のほとんどの方々は職を離れました。今も数名の方が神主をされていますが、上賀茂神社にお勤めの方はたった一人だけです。
賀茂神社には賀茂県主同族会所有の「賀茂県主系図」が保管されています。一番古い系図は鎌倉時代に作られたもので(古系図1巻)、日本で二番目に古い系図だと言われています。
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