2010年11月23日火曜日

護王神社 (ごおうじんじゃ)


和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)
和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)
藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)
路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)

護王神社
護王神社 posted by (C)のりりん


護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まる。正確な創建の年代は不詳である。

和気清麻呂と姉の広虫は、道鏡事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874年)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。

大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫が孤児救済事業で知られることから、当社は子育明神と呼ばれるようになった。


護王神社
護王神社 posted by (C)のりりん



和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そのため亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。

日本銀行券としてかつて発行されていた10円紙幣は、1890年から1945年まで発行されたものは一貫して和気清麻呂と護王神社が描かれたが、そのうち1890年に発行されたものは表面の枠模様の中に8頭の小さな猪が描かれ、さらに1899年に発行されたものは裏面に大きな猪が1頭描かれた。10円紙幣はその後1915年発行のものから猪が描かれなくなったが、その後も含めて和気清麻呂の肖像画が描かれた10円紙幣は長らく「いのしし」と俗称された。(Wikiより)
http://www.gooujinja.or.jp/

2010年11月5日金曜日

秩父神社

秩父神社_看板
秩父神社_看板 posted by (C)トリスケ




八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮様)

秩父神社
秩父神社 posted by (C)トリスケ

秩父夜祭
秩父夜祭 posted by (C)金さん

IMGP3757
IMGP3757 posted by (C)kj

IMGP3759
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IMGP3761
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2010年10月29日金曜日

薬師寺



歴史
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒
)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。


創建
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇で ある鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれ た「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。

「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍 を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう 「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である。





持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。

民話
西の京。かつて朱雀大路で区切られた平城京の西半分を、西の京と読んだことから、この名はおこりました。薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法華寺などの寺々がこの地を彩って いますが、なんといっても西の京のシンボルと言えるのは、薬師寺の東塔です。
「凍れる音楽」とたたえられる薬師寺東塔。これは730年頃の建立で、十六世紀の薬師寺の大火災にも焼失をまぬがれ、創建当初の寺の姿を今に伝える、只ひとつの建造物なのです。塔は一見すると六層に見えますが、それは各層の下にモコシと呼ばれる小屋根がついているためです。本当は三重の塔です。この塔は「竜宮の塔の写し」だといいます。昔、ある工匠の夢に、天竺から渡ってきた薬師如来様が現れ、塔の建立を命じ、それから工匠は、毎日図面をひいて苦心しましたが、どうしてもうまくいきません。すると、また夢のお告げがあり、竜宮城内の立派な塔を見ることが出来ました。工匠はその形を写し取り、薬師寺の東塔を完成したのだということです。

2010年10月26日火曜日

唐招提寺







『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。



唐招提寺のHPで動画がみれます。



寺所蔵説話
唐招提寺蔵片仮名文説話三種 影印・翻刻並に解説 : 「取鷹俗母縁」「役行者悲母事」「桃華因縁」

民話
唐招提寺を開いた鑑真和上は、唐の高僧でした。いくたびも日本に渡ろうとしては失敗 し十一年、ついに日本の土を踏んだ時、辛苦のため和上の目は盲しいていました。 さて、唐招提寺には、鑑真和上の持ち来たった三千粒の仏舎利が祭られています。その仏舎利も、数奇な運命をたどって日本へ渡ってきたのです。 日本に向かう航海中のある日、一天にわかに曇り、海が荒れ始めました。そして長さ 三丈にも達する大海蛇が現れて、船の中央に座する鑑真和上の手から、舎利瓶を奪い取ったのです。思託という和上の弟子が、すかさず海に飛び込みました。

大海蛇と格闘することしばし、ようやく思託は舎利瓶を取り戻し、船に戻ってきました。ところが海はますます激しく荒れ狂い、船は木の葉のように揺れて、再び舎利瓶は 波間にのみこまれたのです。 鑑真和上は、先ほどの大海蛇は竜神かその使者に違いあるまい、と考えました。 それで一同に命じみなで竜神に向けて舎利の無事を祈ったのです。 やがて波のうねりが次第に小さくなっていき、波間にキラリと光る物が現れました。 それは舎利瓶を背にのせた黄金色の亀でした。亀は一人の老人に変身すると、和上にこう語りました。

「私は昔、釈尊に教えを受けた輪蓋竜王である。そなたはこれから日本に渡り寺を 創建するが、その寺の東南に竜王と白い石が現れ、舎利と寺を守るだろう。」と、 そして舎利瓶を和上に渡し、老人は海に消え去ったのです。
唐招提寺創建の折、本当に白い石が寺の東南に現れました。鑑真和上は池を作り、竜神をそこに祀りました。今もある鎮守社がそれで、唐招提寺が一千年以上も火事に あうことがなかったのは、この竜神のおかげだと信じられています。(奈良の昔話と観光スポットより)

仏像
唐招提寺HP
http://www.toshodaiji.jp/about_kondoh.html
仏教美術
http://www.yamagata-net.jp/usr/yamagu2/bukkyo/page/A0006.html


2010年10月24日日曜日

赤坂氷川神社




由緒
天暦5年(951年)、蓮林僧正が霊夢を見て、現在の赤坂四丁目のあたりに奉斎したと伝えられる。享保15年(1730年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の命により、現在地に遷された。現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されている。麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭とされる。明治元年(1868年)、准勅祭社に列する。

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2010年10月15日金曜日

室生寺



室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は、賢璟(けんきょう)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室生」の略だという。仏塔古寺十八尊第十八番。Wikiより












本堂(灌頂堂)
室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。屋根は入母屋造、檜皮葺き。堂内中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛ける。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。




板絵着色伝帝釈天曼荼羅-金堂本尊背後の壁に描かれた彩色画。主題は明らかでないが、寺伝では中尊を帝釈天とする。遺例のきわめて少ない平安前期仏画の稀少な遺品の1つである。


2010年10月13日水曜日

長谷寺

本堂(礼堂)内部、右方が正堂










長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。




銅板法華説相図 - 「千仏多宝仏塔」とも称する。法華経の 見宝塔品(けんほうとうほん)で、釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したもの。縦83.3センチ、横75.0センチの鋳 銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されている。千仏は、薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した、いわゆる押出仏を板面に貼っている。銅板の下部 には長文の銘が刻まれている。そこには「戌年」に「飛鳥浄御原で天下を治めた天皇」の病気平癒のため、僧・道明が作ったという意味のことが書かれている。 この戌年について、寺伝では天武天皇の朱鳥元年(686年)とするが、研究者の間では干支が一巡した文武天皇2年(698年)の作と見る意見が多い。(奈良国立博物館に寄託)