2010年8月30日月曜日
2010年8月27日金曜日
布多天神 薪夜神楽
少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)
神産巣日神(カミムスビノカミ)の御子神であられる。大国主神(オオクニヌシノカミ)と兄弟神となり、相協力してこの国を作り堅められた。諸国を巡り、人々に多くの知恵や技術を授け、助け導かれた。経営の神、酒造の神、温泉の神、医薬の神として広く崇め祀られている。
当社では古くより虫封じ、病気平癒、健康祈願、商売繁盛の神事が行われている。また、大国主神(大黒さま)と共に恵比寿さまとして知られている。
菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)
承和十二年(西暦845年)六月二十五日、京都菅原院にてご生誕。幼き頃より秀で、三十三歳で文章博士になるほどの学者であられた。宇多天皇のご信任を受け右大臣にまで出世された。しかし、藤原氏に怨まれ、太宰権師(だざいのごんのそつ)に左遷された。
大宰府では天を怨まず人を憤らず、誠の心をもって罪の晴れる日を待っておられたが、延喜三年(西暦903年)二月二十五日、配所で五十九歳の生涯を閉じられた。
学問、特性ともに高かった菅公は、死後も人々に尊敬され、今もなお学問の神、書道の神、天神さまとして親しまれ、広く仰ぎ祀られている。
布多天神社HP
所在地 東京都調布市調布ヶ丘1-8-1
2010年8月26日木曜日
新山神社 鴨沢神楽
奥州市江刺区広瀬「鴨沢神楽」
早池峰の大償神楽の流れをくむ山伏神楽である。演目は36幕で、大別すると式舞(役舞)と式舞以外のものとなり、式舞以外の舞には神舞・荒舞・女舞・武士 舞(番楽舞)と権現舞がある。新山神社の例祭(9月4日)に神楽殿において、また元旦の未明に年頭の奉納舞が、春の例祭(3月9日)には神社で奉納した 後、門打ちと称して地区内の各家を回る。その芸風は大償神楽の七拍子を基本とするなど大償の芸風をよく伝えているが、演目によっては舞型や構成、舎文など に独自性を示すものもある。平成9年12月4日に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定された。民俗芸能・郷土芸能.COMより
2010年8月25日水曜日
相模国三之宮・比々多神社
相模国三之宮・比々多神社
比々多神社HP
主祭神
豊斟渟尊 トヨクムヌノミコト
(またの名を豊国主尊 トヨクニヌシノミコト)
国土創造の神さま 大地・開発・発明・創造
天明玉命 アメノアカルタマノミ コト
玉造りの神さま 不思議な霊力発揮・子宝
雅日女尊 ワカヒルメノミコト
機織りの神さま 衣料
日本武尊 ヤマトタケルノミコト
叡智と武勇の神さま 出世・開運・除災・交通
相殿神(あいどのしん)
大酒解神 (大山祇神)オオサカトケノカ ミ
酒造りの神さま 酒類業・山火鎮護
小酒解神 (木花咲耶姫)コサカトケノカミ
縁結び・子授安全
比々多神社 posted by (C)TUNE |
比々多神社_20090101-03 posted by (C)TiMaria |
比々多神社_20090101-02 posted by (C)TiMaria |
比々多神社2 posted by (C)菊次郎 |
2010年8月24日火曜日
2010年8月23日月曜日
知恩院
知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)と称する。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。
四条天皇から下賜された寺号は「華頂山知恩教院大谷寺」という長いものであるが、この名称は、寺の歴史を説明する時などを除いて通常は使われておらず、法人としての寺院名も「宗教法人知恩院」であることから、本項では「知恩院」と表記する。
古の百景: 知恩院御影堂 本上まなみの極私的京都
2010年8月22日日曜日
清凉寺 (せいりょうじ) 嵯峨釈迦堂 (さがしゃかどう)
嵯峨大念仏狂言
壬生狂言や千本ゑんま堂狂言とともに京の3大念仏狂言の一つで、重要無形民俗文化財。円覚上人が生き別れの母に会いたいと祈念して始めたといわれます。
嵯峨の釈迦堂’で知られる浄土宗の古刹。987年(寛和3)然(ちょうねん)が中国から帰国し、大清凉寺の建立を計画。没後、弟子の盛算が棲霞寺に、師が 宋より請来の釈迦如来立像を安置した。体内に内臓を形どった納入物があり、生身如来といわれている。
建立:895(寛平7)年頃
清涼寺(山門) posted by (C)テツさん
清凉寺01 posted by (C)escassy
嵯峨釈迦堂・清涼寺掲額 posted by (C)ふくふく鯛
清涼寺(本堂) posted by (C)テツさん
嵯峨釈迦堂 posted by (C)のりりん
嵯峨釈迦堂 posted by (C)のりりん
この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(みなもとのとおる、822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。
清凉寺 posted by (C)miho
嵯峨釈迦堂 posted by (C)のりりん
棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん、938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の 開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造ら せたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を 中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教 の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方 に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
嵯峨釈迦堂 posted by (C)のりりん
嵯峨釈迦堂の紅葉 posted by (C)のりりん
嵯峨釈迦堂 posted by (C)のりりん
住所
右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
2010年8月21日土曜日
2010年8月19日木曜日
新山神社 鴨沢神楽 岩崎鬼剣舞盆供養
鬼剣舞(民俗芸能)
北上市の周辺に伝わる「鬼剣舞」は正式には「念仏剣舞」である。仏の化身である忿怒の形相の鬼面をつけ踊るところから「鬼剣舞」と呼ばれている。修験の祖・役小角が念仏を広めるために、念仏を唱えながら踊ったのが始まりという。こ の踊りの歩行方法に、「反閇」がある。これは陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、「大地を踏み悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行わ れる。とくに、念仏によって御霊や怨霊を往生させて災厄を防ぐ浄土教の信仰的要素が顕著である。踊りの演目は多くて18種目、一般的には12種目が踊ら れ、踊りの多くは、引き念仏、早念仏、せんや念仏を唱えての輪踊りである。三人加護のように祈祷性の強まった踊りや、刀剣舞の狂い踊りのように武技を思わ せるもの、膳舞、宙返りのように曲芸の要素も入った踊りもある。
2010年8月18日水曜日
紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」
福井県神社庁HPより
岡太神社は延喜神名式に記載されている、今立郡一四社中の一社に比定されてい
る社でその創始は社伝によれば継体天皇が皇子として同国に潜んでおられた頃(499)
の 一日岡太川の上流、水清き宮ケ谷に女神とおぼしきいとやんごとなき一上臈があらわれ「この村里は谷間故田畠少く生計を立てることはむづかしいが幸い清らか な谷水に恵まれているから紙を漉けばよいであろう」と白ら上衣を脱いで竿頭にかけ紙漉く技をねんごろに教えられた。伝習をうけ、いたく喜んだ村人達が名を お尋ねすると「岡太川の川上に住む者よ」とのみ申されただけで姿はいつしかかき消えていた。村人は瞼に残る尊容を川上御前と崇め地主神として、岡太川の上 流宮垣と呼ばれる山腹に岡太神社を建てて紙の祖神岡太の大神としていつき祀ったと伝えている。
爾来村人は世々この神の教示に違うことなく製紙の業 を守り伝えるばかりではなく、岡太大神(川上御前)に対する篤い信仰を深い追慕を基軸としながら、大滝神郷一円を中心に和紙の技術を磨き発展していった。 丁度その頃越の大徳として知られた泰澄大師が養老3年(719)此の地に来て今の大徳山を開き岡太神社(川上御前)を御前立とし国常立尊伊井諾尊を奉祀し 十一面観音を本地佛とした霊場を開き名称を小白山大瀧児大権現(現在の大瀧神社)と称え、別当寺大徳山大瀧寺を建立し、社僧を置き神事を掌らしめる一方、 大いに製紙家を保護し写経用紙と護符紙の確保に努めたので、岡太神社も大瀧神社と共に著しく興隆していった。かくて鎌倉時代には国内有数の大社となったこ とは国内神名帳によっても明かである。この問岡太神社の名前は大瀧児大権現の陰にかくれ表には出なかったものの朝倉家の保護の下に奉吉紙を初めとしてこの 神郷一円に製紙技術が益々発達するに及んで製紙の守護神として岡太大神(川上御前)に対する尊崇は弥々篤く、その技法は修験者によって各地に広められて いった。然るに延元2年(1337)には足利軍の兵火に回録した為それ以後は大瀧児大権現に合祀され、大瀧児大権現(大瀧神社)の摂社となったが越前和紙 のすばらしい技法は中世末より近世にかけて山陰、九州地方をはじめ、奥羽・関東方面にまで伝播してゆき製紙の神として岡太の大神の崇敬は連綿として絶える ことな
く、御分霊を奉齋する者、あとをたたない有様であった。殊に大正12年7月内閤印刷局抄紙部において紙幣を漉くにあたり、その守護神として 岡太神社の御分霊が奉祀されるや、全国紙業界の総鎮守と仰がれ、奉祀されるばかりでなく現在は紙幣の神として金運招福、商売繁昌の神として全国より強い信 仰を受けるに至っている。昭和28年12月、全国紙業並びに氏子崇敬者の懇請により、大瀧神杜の摂社より新たに宗教法人として一社独立し今日に至ってい る。昭和59年10月社殿を再興当時(江戸初期)の姿に解体修理復元し現在は町文化財として指定されている。
御祭神 岡太大神 | |||||||||
大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ修験場の霊場で明治元年まで正一位小白山大瀧六所権現児御前と称えられ、神領七〇余町、日野川以東の村落四八ケ 村を氏子とする国内有数の大社であった。その創始は社伝によると、推古天皇の御代(593)大伴連大瀧の勧請に始まると伝えられ次いで鎮護国家法師で白山 を開き越の大徳として知られた泰澄大師が元正天皇の命を受け国家安泰疫病鎮護の為、養老3年(719)当地に来り既に霊山と仰がれていた大峰山(大徳山) に登り17日の参籠、祈願をこめた後、地主神として岡太川の上流に祀られていた紙祖神岡太神社(式内論社)を御前立とし国常立尊、伊弊諾尊の二柱の神を主 祭神として配し十一面観音を本地佛として、山上山下に社殿堂宇を建て、霊場を開き別当寺として、大徳山大瀧寺を建立社僧を置いて神事を掌らしめる一方、護 符や写経用紙を確保する為製紙の保護発展に努めるに及んで社運著しく隆興した。特に鎌倉時代には堂塔伽藍は立ち並び四八坊を有するまでに至り社僧六七百を 擁する一大勢力を有した(国内神名帳参照)。その後興国2年(1341)新田勢と共に足利の軍に抗し兵火に罹り一時衰頽したが室町時代の中葉、国主朝倉氏 の帰依篤く、同一族の祈願所となるや再び興隆、宗教上においても軍事、経済上においても名実共に最大の勢力をもつに至った。それにつれて当社の山城である 大瀧城は五つの出城も出来難攻不落を誇ったと伝えら
れる。かくて年中の神事も七〇余度、殊に3月の八講、9月の仁王講など春秋の大祭礼には上宮 (奥ノ院本宮)より下宮(里宮)までいつも神幸がなされ、競馬、流鏑馬、湯の花の神事など行われ、参拝者は遠近を問わず引きも切らない有様であった。然し 織田信長一揆征伐の際、瀧川一益によって大瀧城は落城したので四八坊と言われた社域の堂塔はことごとく焼き尽くされ一時は全く衰退したものの、秀吉徳川代 々の保護もあり特に松平氏は大いに社殿を再興した。内でも天保14年(1843)改築された本殿は八棟造に隙き間もなく施された彫刻の精巧さ、又屋根の形 態は現在知られている神社社殿のなかでは最も複雑な型をもっており江戸末期の代表的建築である。更に福井藩主秀康以来歴代の奉賽は欠けることなく崇敬の実 を示されている。
明治元年、社号を大瀧児神社と改め、同8年21月郷社に列せられ岡本村の総社氏神となり社号も大瀧神社と改称。同22年には山上 奥の院の末社の内天照大神、春日・八幡社を一社(春日神社)に統合合祀し、水分神を摂社岡太神社に次いで明治41年山上(奥の院)の別山鎮座八坂神社(須 佐能男命)を境内社に合祀八照宮と改称。昭和3年11月13日本社大瀧神社の社歴を案じて県社に列せられた。昭和59年5月下宮本殿拝殿が重文に指定され たその記念事業と、平成の御大典の記念をかね下宮の本、拝殿屋根の葺替え及び神門、廻廊、奏楽殿の造営を行い平成3年7月完成同4年5月竣功祭を行う。
御祭神
国常立尊
伊弊那諾尊
伊弊那美尊
古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」1日目
古の百景: 紙祖神 : 岡太・大瀧神社「紙と神のまつり」最終日
2010年8月17日火曜日
大仏殿の万燈供養会
東大寺大仏殿では、盂蘭盆(うらぼん)の最終日、8月15日の夜、大仏さまにたくさんの灯籠をお供えして、万灯供養 会を厳修いたします。大仏殿の万燈供養会は、お盆に帰省できない方々にもせめて御先祖の供養をしていただけるようにという趣旨で、昭和60年に始められま した。
当日は午後7時から10時までの間、正面の中門を開いてどなたでも自由にご参拝いただけますので、参 道などに並んだ約2500基の灯籠に灯が入った幻想的な雰囲気を味わっていただくことができます。また大仏殿正面の観相窓(かんそうまど・(桟唐戸))が 開いて、大仏さまのお顔が灯火に浮かび上がるさまを参道から拝んでいただくこともできます。殿内では僧侶が『華厳経』を読誦して法要をいとなみ、祈願帳に したがって皆様のお名前と願い事を読み上げるとともに、三界の諸霊の追善供養を行います。 なお、一旦定刻(午後5時30分)に大仏殿を閉門した後これらの灯籠に火をともし、午後7時に大仏殿の中門を開門、この後午後10時まで自由に参拝することができます。東大寺HPより
籠神社 水琴窟
Wikiより
社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。
養老3年(719年)、 真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めた。真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とさ れた。後に海神・天水分神が配祀された。祭神が籠に乗って雪の中に現れたから「籠宮」という社名になったという伝承がある。
延喜式神名帳では「丹後国与謝郡 籠神社」と記載され、名神大社に列し、月次・新甞の幣帛に預ると記されている。
社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目である。4代目の倭宿禰命は神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導した。「海部氏系図」が国宝に指定されている。
2010年8月16日月曜日
高台寺・開山堂龍図
高台寺(こうだいじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。
開山堂(重要文化財) - 書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。
知恩院御影堂 本上まなみの極私的京都
知恩院HPより
三門をくぐり、急な石段の男坂を登りきると、左手に巨大な屋根を持つ雄大な建築物が見えます。俗に「大殿(だいでん)」と称するこの建物は、元祖法然上人の御影(みえい)をまつることから、「御影堂(みえいどう)」の名を持ち、総本山知恩院の中心をなすお堂です。
寛永16年(1639)徳川三代将軍家光公によって再建されたもので、建築様式は唐様を取り入れた和様、大きさは、奥行35メートル、間口45メートル。周囲に幅3メートルの大外縁をめぐらすというスケールの大きさとなっています。
その壮大な伽藍は、お念仏のみ教えの中心としてふさわしく、昔より多くの参拝客を受け入れてきました。現在でも訪れ合掌する人は多く、特に盆会、彼岸会な どの法要時には、参拝や回向の方々でにぎわいます。毎年、4月には法然上人の「御忌大会」が1週間にわたって、12月には法然上人の御影を拭う「お身拭い 式」が執り行われ、広い外陣が参拝の方々で埋まるほどです。
また、御影堂正面右手上部の軒下には、知恩院七不思議の一つ「忘れ傘」があるほか、外縁と本殿を区切る大扉の落とし金の意匠なども、きめ細かい趣向がこら されていて素晴しいものです。これらの落とし金は、防火のためか、河童、亀など水に関係する意匠が多く見られます。他にも、屋根上にある二枚の「葺き残し の瓦」など、見どころの多いお堂となっています。
京都 妙心寺退蔵院 水琴窟
京都の西に位置する妙心寺の山内には40余りの塔頭がありますが、退蔵院はそのうちでも屈指の古刹として知られています。
今から600年前(西暦1404 年)、室町時代の応永年間に無因宗因禅師を開山として建立されました。無因宗因禅師は妙心寺で高徳のきこえ高く、第3世をおつとめになっていました。
退蔵 院は当時の京洛に居を構えた波多野出雲守重通の無因宗因禅師への深い帰依によって作られました。そのころ妙心寺は足利義満の弾圧で名を竜雲寺と変えられ、 関山一派の人々も祖塔を去る悲運に見舞われました。
無因宗因禅師は高徳を惜しまれて大徳寺へとの誘いがありましたが、固く辞して西宮の海清寺に隠棲し、つ いに時の有力者たちに終生近寄ることがありませんでした。
退蔵院は応仁の乱で妙心寺とともに炎上しましたが、亀年禅師によって再建されました。
2010年8月15日日曜日
2010年8月14日土曜日
浄土宗総本山知恩院御忌大会
法然上人がお亡くなりになられた日を期して行われる上人の遺徳を偲ぶ忌日法要。知恩院で一番大きなかつ重要な法要です。
法然上人がお亡くなりになられた後、その忌日に上人の門弟たちが修した「知恩講」に由来します。
もともと「御忌」という言葉は天皇や皇后の忌日法要を指していましたが、大永4年(1524年)当時の天皇である後柏原天皇より「知恩院にて法然上人の御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」が出されました。これより法然上人の忌日法要を「御忌」と呼ぶようになりました。
当初は1月に勤められておりましたが、明治10年から4月に勤められるようになり、今日に至ります。(知恩院HPより)
水琴窟 京都・円光寺
十牛の庭と呼ばれる庭園には洛北で最も古いと言われる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟がある。
円光寺(えんこうじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は瑞巌山(ずいがんさん)、開山は三要元佶(閑室)、開基(創立者)は徳川家康。
十牛の庭と呼ばれる庭園には洛北で最も古いと言われる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟がある。秋は紅葉の名所となり、夜間ライトアップも行われていたが、2008年以降は休止となっている。Wikiより
四天王寺
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称。聖徳太子の慈悲心を受け継ぐ名僧らが拠り所としていたこともあり、また元から特に宗派にはこだわらない別格とされていた。第二次世界大戦頃までは長く天台宗に属していた時期もあったが、日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立している。
世界最古の企業である金剛組が建立したとあって世界的にも大変高名。
2010年8月12日木曜日
2010年8月11日水曜日
東寺講堂
重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏(重要文化財に指定)のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像で、平安時代前期を代表する密教彫像として国宝に指定されている。これら 21体の仏像の表す具体的意味について、かつては仁王経に基づく羯磨曼荼羅であると説明され、仁王経と金剛界法とを融合したものとも説かれるが、空海の真意が何であったかについてはさまざまな解釈があり、定説をみない。Wikiより
2010年8月10日火曜日
熱田神宮 歩射神事
歩射神事(ほしゃしんじ)
神矢により豊年と除災を祈ります、直径六尺(約1.8m)の大的に向かって六人の射手(いて)が矢を中央の千木に向けて放ちます。この神事は新春の宮中にならったものといわれます。
豊年と除災とを祈る神事で、午後1時より神楽殿前庭で行っております。俗に「御的(おまとう)」ともいわれ、大勢の参拝者がおとずれます。
初立・中立・後立の各2人の射手(神職)が矢を2本づつ、各3回、計36本を奉射します。
最後の矢が射られたと同時に参拝者が一斉に大的を目指して押しかけ、特に大的の千木(ちぎ:大的に付した木片)は古くより魔除けの信仰があり、多数の参拝者がこれを得ようと奪いあうさまは壮観です。熱田神宮HPより
神矢により豊年と除災を祈ります、直径六尺(約1.8m)の大的に向かって六人の射手(いて)が矢を中央の千木に向けて放ちます。この神事は新春の宮中にならったものといわれます。
豊年と除災とを祈る神事で、午後1時より神楽殿前庭で行っております。俗に「御的(おまとう)」ともいわれ、大勢の参拝者がおとずれます。
初立・中立・後立の各2人の射手(神職)が矢を2本づつ、各3回、計36本を奉射します。
最後の矢が射られたと同時に参拝者が一斉に大的を目指して押しかけ、特に大的の千木(ちぎ:大的に付した木片)は古くより魔除けの信仰があり、多数の参拝者がこれを得ようと奪いあうさまは壮観です。熱田神宮HPより
2010年8月9日月曜日
八咫烏神事 熊野本宮大社
国家攘災、国民除疫を祈り、調製した午王神符(お烏様)を神前に献じて祓い清め、年頭に作られた宝印の押し始めの祭りで、別名「宝印神事」とも云います。 この御祭りに参列された方だけに白玉午王(白紙午王)を授与されます。
参考
http://www.mikumano.net/hongu-archive/yatagarasu.html
2010年8月8日日曜日
東寺金堂
国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任にあたった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
菅生石部神社 御願神事(竹割まつり)
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)は石川県加賀市にある神社である。式内社、加賀国二宮で、旧社格は国幣小社。通称敷地天神、菅生天神。
むかし疫病が流行しそれを鎮めるために用明天皇元年(585年)に宮中で祀っていた神々(現菅生石部神)をこの地にお遷しになり、疫病を鎮め五穀の豊穣を祈願したことにはじまる。
中世には越前國三ノ宮、後に加賀國二ノ宮となり、京都の北野天満宮領として天神信仰が盛で、明治期には國弊小社に列せられる。 住古より正親町夫皇の頃まで一年二度の居入祭には勅使が参向し、御衣神宝を奉まつるなど朝廷の崇敬篤く、木曾義伸・富樫昌家・足利義持・豊臣秀吉・山口玄蕃等部門武将深く尊崇。
前田藩においては氏神として神地寄進社殿造営調度の修復等が絶えず、夏祭天神講を藩祭とし、三日間の中の日を仕事休めの日として、藩内に住む人々全てを参拝させ崇敬の誠を捧げました。
「竹割まつり」の俗称を持つ御願神事は、毎年2月10日に行われる例祭です。 天武天皇白鳳五年(677年)、の宝祚窮国家安泰御立願により、治世にも乱を忘れないようにと、山幸彦の炎出見尊(ほほでみのみこと)と、兄で海幸彦の酢芹尊(すせりみこと)の神軍(たたかい)にならい、尚武の道を忘れぬための行事とされています。
菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)HP
http://www.tenjin.or.tv/index.htm
2010年8月5日木曜日
滝宮天満宮鷽かえ神事
由緒
光孝天皇の御代仁和2年正月16日、菅公御42歳のとき、讃岐の国司に任ぜられ、同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住み給う。現在の神社境内治は、その官舎跡だと伝えられている。ご来任間もなく、国中を巡視し、つぶさに民の疾苦を問い、国民の撫育して大いに治績をあげ教育、勧業その他にわたって仁政を施されたことは歴史に明らかで ある。教育には特に意を注がれ、聖廟を建て、孔子の像を祀って子弟を教養せられた。当社の西北600米、字川西喜来の孔聖神社はその遺跡に建てられたものである。
宇多天皇の仁和4年の大旱は、麦も枯れ、田植も出来ぬ有様で国民の困苦は記語に絶するものがあったと伝えられているが、公はこの人民の苦しみを救うため、 自ら身命を賭して城山に登り断食七日七夜、一心を天神地祇に捧げて祈雨の願文を奏して人民の困苦を救済することを祈り給うた。公の至誠天に通じてか待望の 雨が三日三夜降り続いた。慈雨によろこぶ国民は老若男女を問はず、国司の邸に群集し、歓喜の余り踊舞いつつ徳を謝した。
また寛平元年7月の頃、国内に疫病流行した際、公自ら病家を訪ねて医薬につかせ、一方般若心経を手写して龍燈院に納め、息災護摩を修し、防疫に尽くされたので効験著しく、人民ことごとく公の仁政に感泣したと伝えられる。公任満ちて御帰京にのぞみ、国民皆父母を慕う如く別れを惜しみ川西に奉送す、今もその地名を伏拝みと称している。
慶安元年、松平家初代頼重公のとき、菅公謝徳の古例に因み、毎年社前に執行する念仏踊りは大変貴重な神事として非常に尊敬し、十分に保護する必要があるとして高札(文略す)を下附せられ、最も厳粛に踊を執行せられた。其後数百年を経過し、社殿漸く腐朽するに及んで、桜町天皇の元文6年社殿の修補を行い、更に仁孝天皇の文政5年、国中敬神の土曜起となり、崇敬有志竝大阪 構中より喜捨を仰ぎ、本殿、拝殿、玉垣等を始め諸建物の増改築を見るに及び、其輪奐の美は当国無比と称せられたが、明治6年、西讃の暴民蜂起して処々に散在する役館を焼去したが、当時天満宮西隣龍燈院の一部を役場に使用していたため、同年6月28日類焼の厄に遭い壮麗を誇った社殿は惜しくもその一切を焼失した。
明治21年再び四方崇敬者の喜捨によって再建せられた。現在の社殿はこの時のものであるが大正10年、敬神家の寄進によって御修繕を施した。昭和52年菅公1075年忌祭に際して記念事業として崇敬者の寄進によって、宝物殿・御神門を創建し現在に至っている。
滝宮天満宮HP
2010年8月4日水曜日
2010年8月3日火曜日
2010年8月2日月曜日
2010年8月1日日曜日
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