歴史
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
創建
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇で ある鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれ た「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。 「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍 を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう 「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である。
持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
民話
西の京。かつて朱雀大路で区切られた平城京の西半分を、西の京と読んだことから、この名はおこりました。薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法華寺などの寺々がこの地を彩って いますが、なんといっても西の京のシンボルと言えるのは、薬師寺の東塔です。
「凍れる音楽」とたたえられる薬師寺東塔。これは730年頃の建立で、十六世紀の薬師寺の大火災にも焼失をまぬがれ、創建当初の寺の姿を今に伝える、只ひとつの建造物なのです。塔は一見すると六層に見えますが、それは各層の下にモコシと呼ばれる小屋根がついているためです。本当は三重の塔です。この塔は「竜宮の塔の写し」だといいます。昔、ある工匠の夢に、天竺から渡ってきた薬師如来様が現れ、塔の建立を命じ、それから工匠は、毎日図面をひいて苦心しましたが、どうしてもうまくいきません。すると、また夢のお告げがあり、竜宮城内の立派な塔を見ることが出来ました。工匠はその形を写し取り、薬師寺の東塔を完成したのだということです。