藤原 道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。
藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守藤原中正の娘・時姫。同母の兄姉に藤原道隆・藤原道兼・超子(三条天皇母)・詮子(一条天皇母)らがいる。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。
父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡子伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。
一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが道長は三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆された。
太政大臣となり位人臣を極めた後に出家するが、頼通を後見し続けた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。
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