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藤原道長の栄花~その生活と信仰~2
藤原 道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。
藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守藤原中正の娘・時姫。同母の兄姉に藤原道隆・藤原道兼・超子(三条天皇母)・詮子(一条天皇母)らがいる。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。
父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡子伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。
一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが道長は三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆された。
太政大臣となり位人臣を極めた後に出家するが、頼通を後見し続けた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。
下鴨神社 賀茂御祖神社 斎王代禊の儀
葵祭の斎王代(さいおうだい)以下、女人列に参加する四十人の女性が身を清める神事。毎年、上賀茂神社と当神社の交代で行われる。 斎王とは、平安朝時代 未婚の内親王が選ばれて奉仕した。現在は代理として、京都在住の一般の方から選ばれた女性が務めている。十二単を着て神社のみたらしの池で川の水に手を浸 し、身を清める御禊(みそぎ)を行う。 古くは鴨川の河原で行われてたが、鎌倉前期に斎院の廃止と共に中断。昭和三十一年の斎王列復活により、両社の隔年 交替で行うこととなった。日時は一定しないが五月初旬、御手洗川のほとりで、葵祭に先立ち斎王代と女人列が清流に臨んでハライを受ける。 青葉こもる神域 で華やかな十二単の上に白い小忌衣(おみごろも)を召された斎王代、あどけない童女、小袿の命婦(みょうぶ)・女嬬(にょじゅう)・内侍(ないし)・女別 当など五十余名の女人列が雅楽の流れる中、進む様はまことに優美な王朝絵巻である。 この禊の儀をおえると、いよいよ葵祭は間近い。
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五行の舞 大宝八幡宮
大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫(つくし)の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりです。天台宗の古い経文の奥書に「治承三年(1179)己亥七月二十二日の未時書了於常陸州下津間八幡宮書了兼智」とあるため、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかります。平将門公も戦勝祈願のために度々参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられています。
吾妻鏡(あづまかがみ)」に下妻宮(しもつまのみや)としるされ、文治五年(1189)、奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建されました。
寛政七年(1795)には光格天皇より額字及び御紋付幕を賜り、明治十九年には北白川宮より幣帛料が進納せられ、徳川家からは社領百十五石が寄進され代々の朱印が付されて現存します。代々の大宝城主、下妻城主の崇敬がことのほか篤かったと伝わっております。