ページ

2011年5月26日木曜日

葵祭



葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさした。

2011年5月24日火曜日

2011年5月18日水曜日

二見興玉神社





二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、三重県伊勢市二見町江にある神社である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。境内の磯合にある夫婦岩(めおといわ)で知られる。猿田彦大神と宇迦御魂大神(ここでは神宮外宮の豊受大神の別名とされる)を祭神とする。

二見興玉神社HP

http://www.amigo2.ne.jp/~oki-tama/



2011年5月12日木曜日

葵祭 御禊の儀


斎王(さいおう、いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。厳密には内親王なら「斎内親王」、女王の場合は「斎王」「斎女王」と称したが、一般に両者をまとめて斎王と呼ぶ。

伊勢神宮の斎王を斎宮、賀茂神社の斎王を斎院とも称し、斎宮は古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続した。


斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。

賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。



2011年5月7日土曜日

流鏑馬神事



流鏑馬(やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。





小笠原流HP
http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/index.html
小笠原流@Wiki
http://ogasawararyu.wiki.fc2.com/

2011年5月2日月曜日

御香宮神社 (ごこうのみやじんじゃ)



平安期、境内から病気に効く香水がわき出たので清和天皇がこの名を賜ったという。桃山期の特色ある建築物のうち表門や極彩色彫刻の本殿は重文。神功皇后ほ かを祀り、豊 臣秀吉は伏見城の守り神とした。書院の庭は、小 堀遠州ゆかりの石庭。鳥羽伏見の戦いでは薩軍の屯所に。10月3日~10月11日までの神 幸祭は「伏見祭」といわれ伏見随一の祭。獅子一対・御輿3基、武者行列のほか、多数の氏子が出仕しての行列がある。10月3日、10月10日夕方 から趣向をこらした大小の花傘が氏子各町から「アラウンヨイヨイ…」のかけ声で参加し、夜遅くまでにぎわう。

建立:現在の本殿の建立  1605(慶長10)年

環境省名水百選認定 「伏見の御香水」
伝承によると、この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったというが、実際には筑紫の香椎宮を勧請したという説のほうが有力である。

創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によると、この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったというが、実際には筑紫の香椎宮をこの地に勧請したという説のほうが有力である。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。

豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした。(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている。)

後に徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。

能舞台

絵馬堂


拝殿の極彩色唐破風彫刻



ホームページ http://www.kyoto.zaq.ne.jp/gokounomiya/